トルコがなぜ世俗主義を選んだのかが分かるお話

トルコ

かつてはオスマントルコ帝国としてイスラーム教を中心としてアジア、ヨーロッパそしてアフリカの三つの地域にわたって支配圏を確立していたトルコ。

しかし現在のトルコは世俗主義を採用しており、公共の場所ではイスラーム教に関するものは徹底的に排除されています。

ただ今でもトルコ国民の多くはムスリムでもあります。

このような状況にあるのになぜトルコは強力な世俗主義を採用しているのでしょうか。

そこで今回はなぜトルコが世俗主義を選択したのかを見ていこうかと思います。

そもそも世俗主義って何よ?

そもそも世俗主義とはどんなものかをまず簡単に説明しておこうと思います。

世俗主義の始まりはフランス

本当に簡単に説明すると世俗主義とは、政治に宗教を持ち込ませないことを指します。

なので世俗主義を採用しているトルコではイスラームが戒律で禁止していることを、あえて戒律を無視するような法律などが制定されていたりするのです。

政治に宗教を持ち込ませないということは日本でも同じだろと思う人もいるかもしれないのですが、トルコの世俗主義はそれだけではないのです!

それはどういうことかというと、市民にも宗教活動に関してはある程度の制約が課されているのですね。

例えばイスラーム教では女性は素肌をさらすことはよろしくないということでスカーフの着用が義務付けられているのですが、トルコですと国や公共施設においては女性はスカーフの着用を禁止されています。

またイスラームでは飲酒を禁止しているのですが、トルコ国内では簡単にお酒などが比較的自由にアルコールが入手することができます。

さらにイスラーム教の指導者も国家公務員とされており、トルコでは宗教は政治によって厳格に管理されているのです。

このように、トルコの世俗主義は国家が宗教を徹底的に管理するだけでなく、市民に対しても宗教活動については法律である程度の制約があるというのが特徴と言えるのですね。

日本でしたら国家が市民の宗教活動を規制するなんて考えられませんので、トルコの世俗主義は相当強いものだと言えますね。
(サリン事件を起こしたオウム真理教ですら解散命令が出されただけで、個人がオウム真理教の信仰活動を公共の場で行うことを禁止する法律を国家は制定していませんし)
そこで次からは本題であるトルコがなぜこうまで強固な世俗主義を選んだのかを見ていこうと思います。

世俗主義を選んだのは富国強兵のため

現在のトルコ共和国が国是として世俗主義、政教分離を選んだ最大の理由は一言でいってしまえば富国強兵のためです。

トルコ共和国が成立したのは第一次世界大戦が終わって間もなくの1923年の事です。

それまでのトルコはオスマン帝国としてイスラーム世界とりわけスンニ派の中では盟主的な存在でした。

また最盛期には頭の方で述べたように3の大陸に渡って支配圏を確立するほどの強力な覇権国家でもありました。

しかし、ヨーロッパで産業革命と国民国家化が進行していくとオスマントルコ帝国は相対的に弱体化していくのでした。

そして最終的には第一次世界大戦にドイツ側として参戦した結果、連合国に帝国は解体されてしまったのですね。

このようにトルコは国土を戦勝国に(とりわけギリシャに)食い尽くされていくのです。

しかし、これはヤバイとトルコ国民は思うわけです。

そうした中で登場するのが後に初代大統領となるムスタファ・ケマルという非常に優秀な軍人です。

ケマル

初代大統領となったケマル

彼はギリシャによって奪われた国土を軍事的作戦により見事奪還を果たします!

そして彼はトルコ共和国を成立させ、初代大統領に就任するのですね。

彼はトルコがオスマン帝国がヨーロッパ諸国の草刈り場にまで弱体化したのは、イスラーム教が政治の世界にまで影響力を行使しているためだと考えました。

当時のヨーロッパの列強国では、すでに宗教は政治の世界からある程度は分離されていました。

しかしオスマン帝国では未だに宗教が目に見える形で政治を支配していたのですね。

実際オスマン帝国ではイスラーム教の威光があるからこそ無能なスルタン(皇帝)でも自由に政治を行えていました。

そんな中でヨーロッパの列強に追いつき、打ち勝つには政治を宗教の影響からから解放する必要があるとなるのですね。

だからこそケマルは新生したばかりのトルコ共和国の政治からイスラーム教を徹底的に排除することに決めたのです。

そしてケマルは国家を弱体化させた原因とみなした宗教をヨーロッパと同じように、または以上に公的空間から実際に追放していくのです。

例えばそれまでのトルコで使われていた文字はアラビア文字だったのですがそれをアルファベットに置き換えたり、議会の議長の正装としてホワイトタイ(燕尾服)とすることを法で定めたりと欧化政策を突き進んでいくのですね。

(まるで日本の明治政府みたいですね、当時の日本は明治政府が行った欧化政策の結果が花開きなんとか列強の一つと数えられるまでになっていました。このように欧化政策は富国強兵のために必須と当時は考えられても不思議ではない時代でした。)

最終的にはトルコは憲法で国家体制として世俗主義を宣言するにまで至るのです。

その後のトルコとこれからのトルコ

このようにケマルが世俗主義を国是に据えたトルコ共和国はどうなっていったのかというと。

基本的には歴代の政治家、大統領はこの世俗主義を尊守していくことになるのですね。

その理由としては政治家などが少しでも宗教的な言動を見せれば司法が彼らを糾弾してきたからです。

そして時には軍隊までもが出てきて、この世俗主義を守らせてきたのです。

軍隊が世俗主義を政治家に世俗主義を守らせてきたのは次のような理由があるからです。

ケマルは軍人から政治家に転向したので、軍人たちはケマルの後継者、世俗主義の擁護者を自負していました。

ですのでトルコで政治家が世俗主義を緩めようとしたり、イスラーム教を政治に持ち込もうとすればときにはクーデターすら起こしてそれを阻止してきました。

以上のような理由があるから軍隊は、時にはクーデターすら起こして世俗主義を守らせてきたのです!

トルコの世俗主義はこのまま続くのか?

さてこのようにトルコは軍隊による庇護のもとで、その世俗主義を邁進してきました。

しかし、近年のトルコではこの絶対不可侵とも思える世俗主義が揺らぎ始めているのです。

エルドアン大統領

それはエルドアン大統領の政策、存在から見て取ることができるのですね。

エルドアン大統領は公正発展党出身なのですが、この政党の政策は公共の場所で女性がスカーフをつけてもいいとするようなものなのですね。

つまり今まで政治に登場することを禁じられていたイスラーム教を政治の世界に持ち込んできたのです!

こうなると軍隊がクーデターを起こしてエルドアン大統領を潰すかと思ってしまうのですが、実際は逆にエルドアン大統領が軍隊はクーデターを計画しているとして粛清を行なったのです!

つまり、今のトルコはこれまで守ってきた厳格な世俗主義が大きく揺らいでいると言えるのです。

エルドアン大統領が世俗主義に対抗できた理由

さて世俗主義が数十年間も続いてきたトルコでなぜエルドアン大統領が権力を保持することができたのでしょうか。

その理由としては、エルドアン大統領は貧しい人に向けて福祉政策を拡充してきたことを上げることができます。

イスタンブールの中流階層以上や知識人は比較的裕福でかつ世俗主義の恩恵を享受しているので世俗主義を重視しているのですが、地方の住民や低所得者層にはあまり恩恵が存在しない現状がありました。

そうした中でエルドアン大統領は社会的弱者や低所得者層向けの政策を拡充し、実行してきたので人気を得るようになったのですね。

また、貧しい人には施しを与えましょうという考えはイスラーム教の教えの中にあり熱心なムスリムからも支持されるようになるのです。

こうした結果エルドアン大統領は盤石な政治的基盤を築くことができたので、世俗主義を修正することすらできるようになったわけです!

このままエルドアン大統領の政治が続けば、おそらくトルコの強力な世俗主義はいくらか和らげられ政治に対して宗教が影響力を発揮していくことになるでしょう。

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