2010年にチュニジアで起きたジャスミン革命。
この革命はチュニジアを23年間も独裁してきたベン・アリー政権を崩壊させるに至るだけでなく、のちにアラブの春と呼ばれるようにアラブ世界に存在した独裁政権に対して国民が反旗を翻していくわけですが…。
しかし、独裁が倒された、または独裁を倒そうたした国の中には、内戦や目も当てられない混乱が生じた場合もあったわけで。
はてさて、なぜにチュニジアでは成功し、一方で民主化が失敗した国が現れたのでしょうか。今回はその理由を探っていこうかと。
チュニジアで民主化が成功したワケ
さて、チュニジアの民主化が成功した理由を探っていく前に、ジャスミン革命が起きた理由を見ていこうかと。
ジャスミン革命の引き金になったのは一人の青年の死。
この青年は無許可で路上で商売をしていたため、警官が彼を力づくでそれをやめさせてしまうのです。
彼は商売ができなくなり政府に抗議をする意味で、自殺を選ぶのでした。
当時のチュニジアは経済がボロボロでの状態で、政府は汚職にまみれていたわけで。
そん中、この自殺はsnsを通してチュニジア各地に知れ渡ることになるのですね。
この自殺を知った国民たちは、ついに腐敗した政府に立ち向かうのでした。
結果はジャスミン革命として、知られるようになるわけです。
さて、ここからが本題。
なぜアラブの春で民主化が起きた国の中でチュニジアくらいしか安定した政治を実践できているのか?
(アラブの春で民主化を求めたリビア、シリアは今でも悲惨な内戦をやっていますし、他のアラブ諸国では極々一部で改革がなったにすぎませんし、完全に民主主義体制を築けたのはチュニジアだけなんですね)
チュニジアで民主化がうまくいったのは以下の理由が挙げられるかと。
①軍の存在
②新政権の下準備
軍の存在
最初に①の軍の存在ですが、チュニジアでは軍が早々とベン・アリー政権を見限ったため政府はデモ活動を封じ込めることができず崩壊していくことにんるんですね。
しかし、他のアラブ諸国では軍が政府に忠誠を誓い続けためデモ活動は鎮圧されてしまいました。
民主主義実現要求に対しては、ガス抜きとしてほんの一部だけ民主化を進めただけで終わってしまったのですね〜。
(それか内戦に突入する例も、シリアとかがまさにこのパターン)
民主化への下準備の有無
②の新政権の下準備は何かと言うと、チュニジアではなんだかんだ言って独裁政権が崩壊した後国政を運営できる能力を持った野党が存在していました。
ですから独裁政権が崩壊した後でも国政の混乱が最小限に抑えられたため民主化がうまくいったのですね。
一方で、リビアではカダフィ政権を倒したは良いが国政をまとめられる集団(または個人)が存在しませんでした。
なので、現在でも続く内戦が発生してしまい、民主化がどうこう言ってられない状況に陥ってしまうのですね。
アラブの春は喜劇だったのか
以上のように、結果だけを見れば欧米社会が最初は賞賛したアラブの春がもたらしたものは、数多くの権威的な政府がほんのすこしだけ民主化を進めただけでした。
または民主化への要求と独裁政権が折り合うことができなかったため、悲惨な内戦に突入した国も出るという形に落ち着いたわけですね…。
さて、snsが重要な役目を果たしたと言われるアラブの春を自分的に考えてみると、確かにsnsはデモ情報の拡散に非常に意味があるものであったと思いますね。
(まぁsnsという欧米発のツールが中東で用いられ、政治活動につながったから先進国でもアラブの春が注目されたのだろうか、こう考えるとオリエンタリズム的な思考が健在していると言えるのかな〜なんて?)
だが、snsは結局のところ当時では大衆を動員するためのツールにしかなりえなかったのでしょうね。残念ですが…。
人を集めただけでは民主化はできないというわけで…。
このことはチュニジア以外の帰結を見れば明らかなんじゃないかと。(どこも極一部だけの民主化を実施したり、悲惨な内戦になったことからね〜)
じゃあどーすれば民主化ができるかというと、軍を民衆の味方につける必要があるんだよな〜と考えたりしたわけで…。
(さらに突っ込んで軍をどうすればいいか。このことを考えるとやっぱり軍に特別な地位や金を与える必要があるのかな〜なんて、けど政府も宮に対しては相応の待遇を与えているから無理じゃねと思ったりもして)
さて、アラブの春はチュニジアから始まりリビア、エジプトそしてシリアに広がっていきます。
この民主化要求がシリアに行き着いた先に待っていたのが内戦とイスラム国(IS)の台頭につながっていったのですね!
民主化への要求が生臭い内戦やテロの拡大につながっていくとは必然なのか、偶然なのかを考えてしまいますね〜。
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