3分で分かる!?クルド人の歴史と独立問題

IS

ISに対して果敢に戦ったこともあり、そして何よりも独立投票をしたことで世界中から注目を集めたクルド人。

クルド人は2500万人もの人口を抱するとも言われ、今では祖国なき民族とも言われており無視しえぬ影響力を持っています。

しかし、彼らクルド人は自分たちの国民国家を持ちえていません。

そこで今回はなぜクルド人が今日に至るまで自分たちの国民国家を得ることが叶わなかったのか、そして彼らは将来的に独立国家を持てるのかを考えていこうかと思います。

クルド人問題はオスマン帝国の崩壊から始まった

さて、クルド人が現在も居住している地域はトルコ、シリア、イラクそしてイランなど複数の国家にまたがっています。

このようにクルド人が数多くの国に離散している原因としてはオスマン帝国の崩壊があげることができます。

当時のオスマン帝国は今のトルコだけでなく中東地域のほとんどを支配していました。

オスマン帝国はイスラム教を支配の根本に据えていたために、帝国の臣民はイスラーム教を信奉するがゆえに民族性をさほど気にすることなく帝国内で共存していました。

(またユダヤ教徒やキリスト教徒も税制などでムスリムと比べて不平等な条件が課されていましたが…帝国内では自由な信仰や教育が許されていました。)

ですからクルド人もそこまで独立といったことも考えることなく、帝国の臣民として生活を行っていました。

しかしオスマン帝国が第一次世界大戦で敗北すると、情勢は一気に変化していきます。

オスマン帝国は敗北したことで、列強によりその領土が解体されることになります。

ここで出てくるのが悪名名高い三枚舌外交です!

イギリスとフランスとサイクス・ピコ協定に従いオスマン帝国の領土を分割しそれぞれの勢力圏に収めていきました。

このサイクスピコ協定は後にパレスチナ問題の原因になったり、ISが自分たちを正当化するのに利用するように禍根を残すものでしたが…。

さて、その時に問題となったのがどのように分割していくかです。

第一次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領などが音頭をとったことで国民国家の創設は望ましいこととされていました。

こうした空気は中東地域にも伝播しており、オスマン帝国支配下にあっあ各民族の中には自分たちの国民国家を作ろうとする意見が生まれつつありました。

しかしイギリスやフランスはサイクス・ピコ協定に従ってアラブ人が住む土地を分割し、複数の国家を作っていきました。

これは、英仏が石油利権を確保することを目的としていました。

またアラブ人が仮に単一国家を作った場合その国家の広さと人口などから、国際的にも強力な国家になるのではと言う危機感があったのか、中東地域は分割支配されることになるのでした。

さてクルド人ですが第一次世界大戦の連合国とトルコの間で結ばれたセーブル条約で独立は認められていました。

クルド人の独立がセーブル条約が調印された時に認められた理由としては、クルド人の独立国家を作っておけば民族を超えてイスラーム教スンナ派のもとでトルコ人、クルド人そして他の民族協力してイギリスになどに立ち向かってくることは少ないだろうと考えられたためなどと言われています。

しかし、このクルド人の独立国家成立を定めたセーブル条約は撤回されることになります。

クルド人の独立が撤回された理由としては以下のものが原因ではないかと言われています。

ケマルの巻き返し


セーブル条約はクルド人の独立の他にもボスポラス海峡を国際管理下に置くものにすることや、帝国の首都であったイスタンブールをギリシャに割譲するなどトルコにとって屈辱的なものでした。
そしてこのセーブル条約に反対しのちにトルコの大統領になるケマルは反対運動を張って、トルコ国内に侵入してきたギリシャ軍を撃退するなどします。

結果として、ケマルの軍事的な勝利がセーブル条約の撤回につながることになります

英国の対イラク政策

第一次世界大戦後、イギリスはサイクスピコ協定とバルフォア宣言によってアラブ人国家の一角としてイラク王国を建国します。

このイラク王国におけるイギリスの政策はクルド人独立問題にも密接に関連していきます。

イラクとイギリス、そしてクルドは一見関係ないように思えるのですが、実は大いに関連づけることが可能です!

イラクにはキルクークという大油田地帯が存在しています。そしてイギリスはこの油田から採取できる石油を有利に採掘できるようしたいわけですね。

そのまま油田地帯をイギリスが支配してしまえば一番手っ取り早い方法と考えることもできますが、当時は先ほども述べたようにウィルソンの主張が国際世論に強く影響を受けていました。

ですからイギリスは、こうした声に配慮する必要があったので直接的な行動を取ることは控えざるをえませんでした。

なのでイギリスはフランスとのサイクスピコ協定、そしてアラブ人とのバルフォア宣言をうまく料理します。

それがイラク王国の建国です。

イギリスはイラク王国を建国することで当時の世論に応えるとともに、自国の利益を最大化していったのです。

イラク王国は建国の過程からしてイギリスの傀儡国家と言えるものでした。

ですからキルクークの油田も問題なく抑えることができたかと思えたのですが、一つ問題が出てきます。

それがクルド人です。

イラクの大油田地帯であるキルクークには多数のクルド人が居住していました。

ですからクルド人が国民国家を形成すれば、このキルクークもクルド人国家の領土になることが十分に考えられました。

イラク王国内にキルクークがあればイギリスの石油利権はまず安全と考えられますが、仮にクルド人国家ができればそれがどうなるかは分かりません。

ですから英国政府は石油利権の確保を万全にするためにも、セーブル条約で認めていたクルド人の独立承認を撤回することは理にかなったものでした。

このようにイギリス政府にとっては、クルド人独立はあくまで弱いカードの一枚に過ぎなかったということがクルド人独立の失敗の最大の原因と言えるのではないでしょうか。

クルド人の独立運動

さて、セーブル条約では独立国家創設を認められていたクルド人ですが、結局は外部の事態が変化したこともあり独立は認められませんでした。

その後クルド人は恣意的に引かれたため各国に離散していくことになるのですね。

このように少数民族として第一次世界大戦後に引かれた国境で生きて行くこととなったクルド人ですが、彼らはその後どうなっていったのでしょうか?

トルコのクルド人

トルコではケマルが共和国を樹立する際に、外国からの干渉に対してクルド人たちは軍事的にも協力しました。

そのため最初は、トルコ人とクルド人が共存する国だというイデオロギーを政府も持っていたのですね。

しかし、トルコ人とクルド人の共存はそう長く続きませんでした。

なぜ続かなかったのかと言いますと…。

それはトルコ政府が欧米諸国に追いつくため世俗化を進めたからです。

クルド人はイスラーム教に深く帰依していたため政府の世俗化政策は気に入らないものがありました。

また中央政府も国家の統一、そして発展には国民国家化が必要という認識を持つようになったからです。

結果、トルコ政府は「トルコはトルコ人の国家」と自負するようになりました。そしてクルド人を山岳トルコ人と呼び同じ民族であると主張するようになったのでした。

そのためクルド人は公的空間で自分たちの文字を使用することや、自分はクルド人であるといった主張をすることが禁じられたのでした。

仮にこうした命令を破った場合、テロ犯として裁かれる運命が待っていました。

こうしたトルコ政府の動きを受けてクルド人は独立運動を画策するようになるのです。

そして、トルコでのクルド人独立運動で代表的なPKKといった組織が生まれていきます。

ただ、一つだけ注意しなくてはいけないことがあります。

(私がそう思っているだけかもしれませんが)少数民族というと中央政府から苛め抜かれているようなイメージがあるのですが、クルド人とトルコの関係は必ずしもそうではなかったのです!

クルド人はあからさまに自身の民族性を主張しなければ弾圧されることはありませんでしたし、参政権もしっかりと保障されていました。(トルコ政府がクルド人を山岳トルコ人と呼んでいたから当たり前といえば当たり前かもしれませんが…)

また国会議員になることも可能でしたし、軍内部で高級将校の地位につくことも可能でした。(実際、クルド系と言われている人の中には閣僚や参謀長になった人もいたりしたのですね〜)

つまりクルド人が自身のナショナリズムを捨て、そして実力があれば高級将校、官僚にもなれるというわけです。(う〜ん、分断が進めさせるにはオーソドックスな政策…)

イランのクルド人

イランにおけるクルド人は、もしかしたら彼らの歴史の中で最も独立国家成立に近かったかもしれません。

なぜなら、彼らはほんの一時とはいえ1946年にクルド人民共和国(マハーバート共和国)が建設されクルド人国家ができたように見えたからです!(しかし、一年も持たずに崩壊しますが…)

このクルド人共和国家がイランにおいて成立したのは時代が味方したためと言えます。

第二次世界大戦時、イラン皇帝レザー・シャーは親独的な態度を示してしまいました。

彼にとって、これがいけなかった!

こうした態度をとってしまったことにより、英ソがイランが石油をドイツに輸出させないため侵攻してきたのです!

結果としてレザー・シャーは帝位を息子に譲らなくてはいけなくなり、国土は英ソに分割占領されるト羽目になってしまいました。

さて、このようにイランは第二次世界大戦中は混乱していました。

こうした混乱を(一部でしたが)クルド人うまく利用し、クルド人共和国家を成立させたのですね〜。

しかし、この独立の後ろ盾になっていたのはソ連でした。

ソ連はイランの石油が欲しかったのと、革命の輸出の一環として少数民族独立に援助を行っていたので、クルド人の後ろ盾となっていました。

ですが…第二次世界大戦が終結し世界が少しは落ち着いてくると、イランの中央政府はソ連に石油利権を認めます。

これがクルド人共和国家の終焉の音になってしまうのですね〜。

ソ連はイランから石油利権をもらったので、イランとの中をこじらせるような真似は避けたほうがお得になりました。

そのため、わざわざクルド人国家の後見人なぞしてられんわと熱い手のひら返しを見せてくれます。
最終的にこのクルド人共和国家はイラン軍に攻め込まれ、独立の夢は終わってしまうのでした。

このように、イランのクルド人は国を潰されてしまうのですが出版活動などを続けながら、細々と独立活動を続けていくことになります。

さてさて地下で細々続いていたクルド人の民族運動でしたが、転機が訪れます。

それがイラン革命です!

クルド人はパフレビー朝が倒れたことに続けと、革命政府に自治権を要求します。

ですが、この自治権の獲得要求は失敗し王制時代と同じかそれ以上に激しいクルド人の弾圧が革命政府によって行われるようになるのでした。

イラクのクルド人

イラクのクルド人はISとの戦闘、そしてイラク国内の自治地域での独立投票が話題になったりしました。

このように話題を作っていったイラクのクルド人も他国のクルド人と同様に抑圧されてきました。
イラクのクルド人はイラクが元気に王国をやっていた頃も、そして共和制に移行した後も弾圧されていました。

その中でもイラン・イラク戦争においてクルド人は大きな受難を迎えることになるのです。

イラン・イラク戦争において、イラクのフセイン政権はクルド人に対して毒ガスを使用します!

そのためクルド人はイランやトルコに難民として流入していくことになるのですね。

また、イラン・イラク戦争終結後にもフセインはクルド人掃討作戦を実施するなど弾圧は苛烈を極めるものでした。

しかし、苦難を与えられていたイラクのクルド人に湾岸戦争という転機が訪れます。

湾岸戦争においてイラクは手痛い敗北を喫します。

そのため、国内では反フセイン勢力が出てくるなどてんやわんやな状況でした。

そのためクルド人の反乱は鎮圧されることになってしまうのです…。

クルド人はイラン・イラク戦争での苦々しい記憶から再び弾圧されるかもしれないという強い危機感を持っていました。

そのため国外へ難民として脱出をしていくことになるのです。

しかし、イラク付近のトルコやイランとしては彼らが来ると自国でのクルド人のナショナリズムが高まる危険性があるとして入国なんぞ認めたくありませんでした。

このようにクルド人の人権があからさまに無視されている状況に対して国連は声明を発表します。

これに呼応してアメリカはイラク国内にクルド人保護のための「安息地帯」を設けることにしたのですね。

この安息地帯が設けられたことで避難していたクルド人はイラクに戻ってくることになるのでした。(安全が確保されれば、住み慣れた土地にみんな戻りたかったのでしょうね)

そしてこの安全が確保された土地でクルド人は初めて自治政府を持つこととなり、選挙や独自の軍隊を持つにまでになるのです!(それまでの弾圧の時代と比べると大きな変化ですね〜)

こうしたクルド人の高度な自治政府が成立したのは、アメリカもフセイン政権の崩壊は望まないにしてもその力を削ぎ落としておきたいという考えがあったからです。

こうしたアメリカの後ろ盾があってイラクのクルド人は自治政府を手に入れるのです。

自治政府が成立したことで、それまでは単なる反政府武力組織とも言えるペシュメルがは先ほども述べましたが自治政府における正当な軍事組織という立場を獲得したのです。

そして、独立のための武装組織として始まったペシュメルはやがて対イスラム国において重要な役割を果たすことになるのです!

それだけでなくISとの戦闘でクルド人が重要な役割を果たしたという事実はクルド人に大きな自信を与え、独立投票実施への一要因となるのですね。

このようにイラクとイランで成立したクルド人の自治政府の結末を比較してみると、少数民族が独立を果たすには何が必要なのかを暗示しているようで面白いですね。”]

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