今さら人には聞けない?イラン革命の裏側

ペルセポリス 中東

1979年に起きた、イラン革命。

この革命はイランのパフレヴィー朝を倒しイスラーム共和制に移行しただけでなく、アメリカやソ連の対外政策に大きな影響を与えていくことになるにですね…。

はてさて、なぜにこの革命が起き、そして当時の超大国であった米ソの対外政策に変化を生み出したのかを覗いていこうかと。

革命が起きた裏側

そもそも、なぜイラン革命が起きたのでしょうか?その原因として考えられるのが、以下の三つです。

①経済問題
②極端な欧米化政策
③改革の失敗

早速ですが詳しく見ていこうと思います。

経済的な問題


まず①の急激に生じた経済格差とは何かと言いますと、当時のイランのシャー(皇帝、日本では国王と訳されることが多いですが)モハンマド・レザー・パフレヴィーは王権をより絶対的なものにするため、石油から得られる莫大な収入とアメリカから湯水のごとく流れてくる経済援助を用いてどんどん公共事業を行っていたのです。

当時は冷戦期でして。ソ連に対抗するためアメリカはイランのシャー政権と、今では信じられないほど強い同盟関係を持っていたのです。

現在のアメリカとイランの関係をみればそんなことは到底信じられませんよね。

ただ当時のアメリカとイランの関係はすこぶる良いものでしたので、経済援助や軍事支援という形でそれが現れていたわけですね!

さてアメリカの強力な援助と石油資源によってイランでは多数の公共事業が行われたのです。

こうした数々の公共事業はイランの官僚制を発達させ、皇帝の権力を強化させることに一役も二役も買いました。

それまで皇帝はの権力は地主集団や重要な社会集団に依存したものだったのですが、これら公共事業により彼らに依存しないで済む統治機構が完成したのです。

このように皇帝としては自身の権威の確立のための便利な手法であった公共事業ですが、先ほどもみたようにこれは石油や経済援助といった国外からの資金に依存していました。

ですから一度国外から圧力がかかったり石油の価格が下がれば、簡単に影響を受けてしまうもろいものなのです。

なので70年代のオイルショックが起きた初めの頃ははボロ儲けできたのですが、落ち着くにつれインフレや失業、格差の拡大が無視でないほど大きくなってしまいました。

さらに今までみてきたように当時のイランはアメリカと政治でズブズブな関係だったので、当然経済も似たり寄ったりでした。

ですから多数のアメリカ企業がイランに進出し、経済活動を行っていたのですね。

アメリカ企業の進出によってバザールなどイランの伝統的な商業を駆逐される羽目になりました。

そのためイランの商人や中小企業は圧倒的な資本を持つアメリカ企業にやられてしまい、アメリカと親密な関係を築いている体制に不満を抱くようになるのです。

このように皇帝が権力を強化するための政策によって国内の格差が拡大する結果になってしまったのです。

経済的に負けていったイラン国民は皇帝の政策のためこうなったと考えるようになり、革命の一勢力になっていったのです。

極端な欧米化政策


次に、②の極端な欧米化政策ってなにかと言いますと、シャー政権下のイランは先ほど述べたようにアメリカと強い関係にあったわけでして、その影響は政治や経済だけでなく文化にも及んでいたのです。

アメリカとイランの関係がどれほど強力だったかというと、アメリカから最先端の戦闘機や核開発技術が提供されたことからうかがい知れますね。(この時提供された核技術が、後にイランの核兵器開発につながっていくのですから皮肉ですよねー。)

この、文化面での影響はどんなものだったかというと、イスラームでは禁止されている飲酒が堂々と行われていたり女性がヒジャブと呼ばれるヘッドスカーフを巻く必要がないほどでした。

ただ、飲酒の禁止は歴史的に見るとそう徹底されていたわけでないんですね。

これはイランの有名な詩人であるウマル・ハイヤームが飲酒についての詩を作るなどしていたことから飲酒を根絶することができなかったことをうかがい知れますね。

このように飲酒、女性が肌をさらけ出すような格好、さらにはアメリカ映画をバンバン公開する映画館に、ナイトクラブ、自由なセックスなどイランの生活はアメリカナイズされていった状況がありました。

現代のイランでは考えられないほど当時のイランは欧米化した社会だったのです。

そういうわけで、当然なことにイランの伝統なイスラーム社会が破壊されていると考え反感を持つ人が出てくるわけです…。

そのような人たちはもちろん、アメリカと仲がいいシャー政権は消えてなくなれ!とイライラがたまっていくのですね。

特に宗教家としては社会からイスラーム的な規範がなくなっていく様を見せつけられるわけですから、不満を持ってもおかしくはないですよね。

さらには皇帝は経済に暗雲が立ち込めると国策として大衆組織に宗教家を強制的に加入させたのです。

このような宗教界に対しての皇帝の強権的態度は、イマームと呼ばれる宗教指導者からのヘイトを買っても不思議ではないですよね。

自分の意見を押し付けてくる親や教員、上司にはイラついたりした経験があれば、イマームの不満を少しは理解できると思います。

さてこのような伝統を無視した政策や強権的な態度によって、政府に対し怒りを持つ人が一定数生み出したことも革命の要因になっていったのです。

改革の失敗


そして最大の要因は、白色革命と呼ばれる皇帝きも煎りの改革が失敗したことでしょう。

当時のアメリカは権威主義的なシャー政権に対して、イラン国民が反発を起こす前にアメでも与えて黙らせとけよー指示を与えていました。

その理由としては、アメリカが中東で影響力を発揮するために必要な忠実な同盟者がいなくなってしまうことを恐れていたらと言えます。

そこで皇帝が選んだ行動は白色革命と呼ばれる改革を実行して行くことでした。

この改革で女性に参政権が認められるなど自由主義が強いものでした。

ですから強権的な政府に対して不満を持っている国民も怒りを沈めることができるように思えますよね。

しかしこの改革は大失敗するのです!

その原因はこの改革で実行された農地政策が挙げられます。

この農地改革が失敗したがためにシャーの威光は地獄に真っ逆さまに落ちていくわけですねー。

さて、この農地改革の内容としては大規模な地主から農地を取り上げて小作人や小規模農家に再配分するものでした。

これだけを見れば小作農が地主から土地をもらえてハッピーになれたと思えますよね。

ところが実際には土地が地主に集約されていたからこそ大規模で効率的に行われていた農業を解体してしまった結果、小規模で非効率的な農業が営まれるようになってしまったのです。

そうなると自前の土地をもらう前の方が豊かな暮らしをできていたのに皇帝が余計なことをしたせいで、生活が苦しくなったと思う農民が数多く生まれてしまったのです。

このせいでシャー政権は利益を受け取ると思われていた農業従事者から支持を得るどころか、恨まれる羽目になってしまったのです。

これがイラン革命を引き起こす原動力になっていくのです。

ホメイニの革命


これまでみてきたように皇帝は商人や宗教家といった都市部の人間、さらには改革の失敗で農民からも支持を失っていました。

そのような状況でイランの経済、米国との関係の悪化が見られた1977年頃から政権に対してのデモが頻発するようになっていたのですね。

ただ皇帝としては権力を失いたくはありません。

ですからデモに対して弾圧で答えたのです。

この弾圧で国民の怒りは爆発したのです!

そしてとうとう反政府デモは手のつけようがなくなり、翌年の79年の1月に皇帝は亡命しイラン革命は成功したのです。

革命後、パフレヴィー国王は亡命先のエジプトで失意のうちになくなります。国王の息子は現在アメリカでイランの民主化活動をしているそうです。

さてこの革命で重要な役割を果たしたのが、シーア派イスラーム教の指導者であるホメイニ師です。

ホメイニ師

イラン革命の指導者であった、ホメイニ

革命が起きる前からホメイニはシャー政権を徹底的に批判していたため最終的にはフランスにまで亡命していました。

この宗教指導者がなぜ革命で重要な役割を果たしたと言えるのかと言いますと、イラン国民を反皇帝という面で一致団結させることができたからです。

今までみてきたように皇帝は国内のほとんどの人から人気を失っていました。

皇帝が国民から嫌われていると言っても、その国民同士が互いに反目しあっていれば革命を成功させることは難しいものがあります。

分断して統治せよと言う言葉があるように国民がバラバラに反政府運動を行っていれば、皇帝としてはそれを個別に弾圧すれ簡単に鎮圧することができたでしょう。

しかしこのホメイニ師が絶対に皇帝と妥協してはいけないこと、社会主義、民主主義、反帝国主義といったあらゆる主義主張を組み合わせて主張したことで国民間の統合を成功させたのです。

こうしたホメイニ師の巧みな統率によって反皇帝勢力は拡大し、ついには皇帝の権力を倒せるまでに成長したのですね。

ですからホメイニ師がイラン革命の立役者と言えるのです!

法学者の統治


さて、革命が成功し帰国したホメイニは革命の混乱を迅速に収束するため間髪おかずに政治改革を行っていくことになります。

最終的に、イスラーム法学者が政府を監督する「法学者の統治」と呼ばれる政治体制を持つイラン・イスラーム共和国が成立します。

ここで、面白いのがホメイニは最初は自身も法学者であるのに関わらず、「法学者の統治」に疑念を抱いていたことですね。

「イスラーム法学者が政治をできるのか?」と。

あまり良くない例えですが、日本で憲法学者によるグループで実際の政治を指揮していると考えてみましょう。

それまで政治に関わったことがないある意味での素人集団に政治を任せてしまって本当に大丈夫なのと疑問に思っても不思議ではありませんよね。

実際、法学者の特権的地位を得に保障していないフランス第五共和政の流れを組んだ憲法草案を当初はホメイニ師は考えていたそうです。

ただ革命後に行われた選挙にて、法学者の統治と称される指導体制が形になったのですね。

その理由としては先ほどから追ってきたようにイラン革命は様々なグループ、集団が一致団結したおかげで成功したもでした。

ですから当然そこには宗教的色の濃い政治を目指すグループも含まれれば、世俗的な政治を目指すグループも含まれていました。

そのため革命が完了した後、今後の国家方針をめぐって世俗派と宗教的なグループで対立が発生したのです。

この世俗派と宗教的なグループの対立は、法学者の統治が成立したことからわかるように後者が勝利を収めました。

その理由としては、イマームと呼ばれる宗教指導者たちが金曜日に行われる礼拝などを通して組織化を成功させたことにあるでしょう。

宗教指導者と対立した世俗派や左派は、イマームたちのようにうまく組織化を成功させることができなかったため第一回目の選挙では善戦するもその後は負けていくことになったのです。

こうしてイランは選挙を通して!イスラーム法学者が支配する国に変容したのです。

この法学者の統治は現在でも続いているのですね。

国外に対しての影響


イラン革命はイラン国内だけでなく、世界にも影響を与えることになります…。

まず、シャー政権の盟友であったアメリカ。

アメリカとしてはそもそもイランはソ連に対しての防波堤と考えていたので、別にイスラーム法学者が治めていようが気にしないつもりでした。

しかし、イラン国民にとってアメリカはシャー政権を操っていた危険な存在だと思っていたのでアメリカ大使館を占領するなど反米行為を次々と実行したわけです…。

アメリカとしても、そこまでされたらもう許さねぇとなりイランとの関係を絶ち、フセインのイラクと組んでソ連に対抗しようとするのでした。

一方、冷戦のもう一人の巨人ソ連は焦りました。アメリカも同盟国が敵になって焦ったと思うが、ソ連もそれと同じかそれ以上に焦ったのです!

その理由としては、宗教を認めていないソ連ですが中央アジアの領土には多数のムスリムが居住したいたからです。

イラン革命の成功を見たムスリムたちがソ連から独立しようとするのではと心配に駆られることになるのです。

そして、この焦りが同年のアフガニスタン侵攻に影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

結局、イラン革命はイラン国内だけでなく当時の超大国の政治、外交に影響を与えたと思うと感慨深いものがありますよね。

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