湾岸戦争はイラクのフセイン大統領がクェートに進攻し、併合したことで勃発しました。
フセイン大統領がクェートに進攻した理由として上げられることが多いのがクェートとの石油に関する摩擦です。
しかし、クェートと石油に関する問題があったからと言ってそれだけで簡単に戦争を起こすものなのでしょうか。
そこで、今回は湾岸戦争の原因を裏を深堀してみました。
目次
湾岸線の背景
湾岸戦争の理由としては冒頭でも述べたように、石油の利益が大きな原因だったと言われています。
ですから、まずはこの石油に関する問題を簡単に説明していこうと思います。
さて湾岸戦争前夜のイラクは、イラン・イラク戦争と呼ばれる革命イランと1980年から1988年まで戦争を行っていました。
当時のイラクはフセイン大統領による独裁政権でした。
フセイン政権としてはこのまま経済の低迷が続けば、国民が政権に対してのデモ活動からのクーデターを起こし独裁政権が倒されてしまうのではという不安を感じる日々だったのですね。
石油戦略の失敗
そこでフセイン政権は弱体化した経済を救うために石油をより高く得ることで経済を回復させようと考えました。
そのためにイラクのフセイン政権は中東の産油国に対して石油価格を上昇させるために、中東の産油国に対して石油の減産を頼み込むにいたるのですね。
これを受けて多くの産油国はイラクの減産依頼に応じる姿勢を示したのですが、ただ一国だけ応じようとしない国家が…。
その国家こそが湾岸戦争の原因となったクェートなのですね。
このようなクェートの姿勢にイラクはブチ切れて最終的には軍事侵攻までしたのでした。
そしてイラクのクウェート侵攻と併合に絶対に反対するマンのアメリカを中心とした連合国がイラク占領下のクウェート二殴り込みをかけるののですね。
この連合国による殴り込み「砂漠の嵐作戦」から始まる戦争を湾岸戦争とするのですね。
以上が湾岸戦争の流れとその理由ですね。
湾岸戦争の理由が石油と言われる所以を分かってもらえたと思います。
アメリカとフセインの密月
フセイン大統領(以下フセイン)がクウェートに侵攻することを決心したのはもちろん国内の経済危機を脱するために石油の恩恵が必要だったからと言えます。
しかし、そんためのクウェートの占領と併合は当然のことながら国際社会からの反発が予想されます。
また実際にそれを行った後、フセインは国連安保理決議によって武力制裁が警告されました。ですがフセインはクウェートから撤退せずに湾岸戦争に流れ込んで行きました。
そもそも経済危機からの脱出は独裁政権の安定性を求めたからです。それなのに欧米諸国とあえて戦争を行うという選択肢は経済危機よりも独裁政権の寿命を縮める可能性がある十分にありえます。
独裁政権を延命させようとしていたフセインはなぜそのようなリスクを取ったのでしょうか。
その理由としては以下のものがあったからと思われます。
第一にイランイラク戦争から湾岸戦争開戦までイラクとアメリカの関係が比較的良好だったこと。
第二にイラクがアラブの大義を掲げたことです。
アメリカとの友好関係
イラクによるクウェート侵攻前まではアメリカはイラクに対して友好的な態度を示してきました。
後のイラク戦争における米国の敵対姿勢を考えると、そんな時期があったのかと驚いてしまうかもしれません。
ですが当時のアメリカは1979年のイラン革命によって中東における盟友を失い、その代わりを努めることができる国家を求めていました。
そんな中でイランの革命政府に対して敵対的な姿勢をとったフセイン政権はアメリカにとっては十分に利用できるコマに映ったのです。
ゆえにアメリカは、イランイラク戦争中にはイラクに対してある程度の見返りを求めつつも協力したのですね。
さらにはイランイラク戦争が終結した後のイラクの復興事業にアメリカの企業を食い込ませるために、イランイラク戦争中にイラクが国内のクルド人を虐殺したということに目をつむりました。
こうしたアメリカの態度を嗅ぎ取ったのかフセインはクウェートに侵攻しても危機的な問題は発生しないと判断したのかもしれませんね。
さらに、フセインによるクウェート侵攻の数日前に駐イラクアメリカ大使が「アメリカはアラブ諸国同士の問題に関心がない」といった発言がありました。
おそらくフセインはこの駐イラク大使の発言をイラクがクウェートに侵攻してもアメリカは問題視しないと誤って解釈してしまったことで、クウェート侵攻を決心した可能性は否定することはできないでしょう。
しかし、現実としてはアメリカはあっさりとフセインの期待を裏切ります。
アメリカは国連安保理でイラクのクゥエート侵攻に対して非難決議を異例の速さで取り付け、さらには石油の禁輸といった非常に厳しい経済制裁を発動させたのですね。
そしてイラクのクウェートからの即時撤退を求めました。
アメリカがイラクを切り捨てた理由
イラクによるクウェート侵攻前まではアメリカはイラクに対して友好的な態度を示してきました。
ですがクウェート侵攻が起きるや否や、あっさりとその友好姿勢を棄て去りました。
その理由としは、もちろん他国の併合は決して許されないという道義的な価値観があったことは言うまでもないでしょう。
しかし、アメリカの態度が硬化したのはそのような道義的な理由だけでもありません。
フセイン政権はクウェートを侵攻し併合すると、その矛先を次第にサウジアラビアにも向け始めます。
こうした状況ではサウジアラビア、そして他の湾岸諸国の中には次のターゲットは自分たちなのではという空気が流れても不思議ではありませんよね。
このようなサウジラビアの主権が危ないのではという予測が生まれ、その実現はアメリカにとっては決して許すことができませんでした。
米国にとしては西側世界にとって非常に需要な石油産油国であるサウジアラビアにイラクがちょっかいをかければ、石油価格が跳ね上がる危険性が十二分にあります。
さらにイラクがサウジアラビアをはじめとする湾岸諸国全域を手に入れた場合、イラクが石油価格の決定権を握りかねません。
ですから、アメリカは石油価格のためにあっさりとイラクを捨てたのですね。
このように見てみますと、国際政治はやはりパワーポリティクス、権力政治が支配する世界と思えてしまいますね〜。
アラブナショナリズム
さて、イラクはクウェートを併合後、国連安保理からの圧力や国際社会からの武力行使の可能性についての警告を受けてもクウェートから撤退することはありませんでした。
頼みの綱としていたアメリカからも切り捨てられたのですから、さっさとクウェートから撤退すればいいのですがフセインはそれを行いませんでした。
そこにはある秘策があったからなのです。
この秘策こそが先に述べた第二の理由であるアラブの大義なのです。
リンケージ論と言われる理論を振りかざすのですね。
この理論の内容は、イスラエルの建国とイラクによるクウェートの併合は全く同じ行為なのだから非難される言われがないというものです。
イスラエルはアラブ人から土地を奪って建国した際に国際社会は非難しなかったのに、イラクがクウェートを併合したら非難するのはおかしいという理論ですね。
そしてフセインはクウェートから撤退する代わりにパレスチナ問題の解決を国際社会に要求してきたのです。
またパレスチナ問題の解決についてはアラブ人にとっては多かれ少なかれ関心がある問題でした。
そしてそれを解決することができる器がフセインにはあることをアラブ各国の大衆に見せつけることができれば、彼はアラブのヒーローとみなされる余地は十分にあったと言えます。
そしてフセインが各国の大衆から支持されれば、その政府はイラクへの武力制裁の回避に尽力する可能性は否定できるものではありません。
ですからフセインは開戦ギリギリになっても己のアラブの大義への奉仕の姿勢を打ち出すことで戦争にはならないと踏んでいたのかもしれませんね。
これが第二の理由たる「アラブの大義」の利用です!
ですが、結果としてはアラブ各国はアメリカによるイラクへの武力制裁に同調したので湾岸戦争の回避は叶わなかったわけですね。
イラク戦争への舞台準備
最終的には歴史にあるようにイラクはクウェートから撤退することなく、有志連合によって攻撃され湾岸戦争の端緒が開かれるわけですね。
その結果としてイラクは大敗し、停戦条約を受け入れるしかありませんでした。
そしてこの停戦条約こそが、9.11同時多発テロ以降のイラク戦争に大きな影を落としていくことになるのです!
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