パレスチナ問題の原因って何?その答えはイギリス?宗教?

flag-of -Israel パレスチナ問題

ニュースや学校の授業などで、たまに耳にする事がある❝パレスチナ問題❞という言葉。

パレスチナ問題の理由として宗教が違うためだからとか民族が違うからだと簡単に説明されがちですが、実際にはそれだけではないのです!

この記事を最後まで読めばきっとパレスチナ問題の根本が分かるはず!

まず、パレスチナってどこだ?

パレスチナ問題を語るにも、まず場所を分かっていなければ。パレスチナの位置を確認しましょう!

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パレスチナはだいたい、イスラエルやシリアらへんを指します。でパレスチナには現在イスラエルという国があります。

もう少し詳しい地図を見ると以下のようになっています

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さて、なぜユダヤ人はパレスチナに自分たちの国を造ったのでしょうか?

熱狂のシオニズム

その根本的な理由としては(一部の)ユダヤ人たちが、自分たちがヨーロッパ各国の国民としてみなされないのならそれなら自分たち国を作ればいいと思ったからです。

時をさかのぼること19世紀後半。

フランス革命を発端とした自由思想の展開に伴いヨーロッパに住んでいるユダヤ人は各々の国の国民として法的に認められるようになっていました。

それまで多くのユダヤ人は異教徒ということでヨーロッパ社会では相容れない存在と思われていたりしたので、キリスト教徒同じ権利を持った国民とされることは思いもしないようなことだったのです。

こうしたフランス革命以降のヨーロッパ社会での自由主義思想の展開によって、社会のマジョリティ側だけでなく、ユダヤ人たちも同じ国の国民という意識を持つような人も出始めていました。

そうした融和的なムードがあったのですが、ヨーロッパ社会ではアンチ・セミティズムと呼ばれる思想に基づいて激しいユダヤ人差別が見られるようになりました。

アンチ・セミティズムが起きた理由としてはロシアから西側ヨーロッパにユダヤ人難民が大量に流れ込んできたことが挙げられます。

ロシアから西欧に流れ込んできたユダヤ人の多くは貧しい人が多く、身なりは本当にみすぼらしいものがありました。

それだけでなく、そうしたユダヤ人の中には売春などいかがわしい商売する者もいたのです。

なのでキリスト教徒だけでなく、西欧に暮らしていたユダヤ人でさえ彼らを嫌うことがあったのです。

このようにいかにも怪しいユダヤ人が周りに増えていっているぞという風潮ができ、ユダヤ人に対しての反感が生まれるようになったのです。

こうした風潮が生まれた中でヨーロッパにもともと住んでいたユダヤ人が自分はやはり国民として受け入れられていない、受け入れられないのではと不安に思う人が出てきても不思議なことではありませんよね。

さてこうした不安を最大化させるある事件が1894年にフランスで起きます。

それがドレフュス事件(えん罪でユダヤ人の士官ドレフュスが捕まったこと)です。

この事件はどういったものかと言いますと、フランス軍で大尉の身分であったドレフュスというユダヤ人が実はドイツに軍事秘密を漏らしていたと冤罪を着せられた事件です。

最終的には普仏戦争で敗北した軍の保身などのためドレフュスに冤罪をかぶせたことが判明し、無事ドレフュスは無罪を獲得しました。

こうした国民とみなされなかったユダヤ人が排斥される動きは第一次大戦後のドイツだけではなかったというのは興味深い事実ですよね。

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さて話を戻しましょう。

こうした反ユダヤ主義がヨーロッパで拡大する中でハンガリー生まれのあるユダヤ人が登場します。

その男の名はテオドール・ヘルツル。

テオドール・ヘルツル

テオドール・ヘルツル

 

ヘルツルは「ユダヤ人が“安全に暮らせる国”」を造ろうと主張しました。ヘルツルの主張は政治的シオニズムと呼ばれています。

(シオニズムは他にも文化的、実践的などありますが全て紹介していると、パレスチナ問題の説明から脱線してしまうのでカットさせてもらいます。ゴメンなさい…別の記事で詳しく紹介しますね)

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この政治的シオニズムは自分たちが国民と認められる国家が欲しいと思っていた、在ヨーロッパのユダヤ人の心をガッチリと掴んだのです。

またユダヤ人の中には自分たちの国を、かつてソロモン王の栄華があったパレスチナの地に求める者も現れ始めました。

その理由としてはユダヤ人は世界各地に散っていたので、当時のユダヤ人は住んでいる国によって使用する言語や身につけた文化が全く違うものであるということは不思議なことではありませんでした。

ドイツや東欧に住んでいたユダヤ人はイディッシュ語と呼ばれるドイツ語の方言みたいな言葉を利用していましたし、スペインや北アフリカに住むユダヤ人はらディーノ語を利用するなど文化や言語は多様なものになっていたのです。

さらには肌の色や人種まで違うということも十分に考えられることでした。

ユダヤ人といえば白人というイメージがありますが、非常に大雑把な分類ですがユダヤ教を信じていればユダヤ人とされます。

ですから黒人やアラブ人でもユダヤ人ということは珍しいことでもなく、普通にありえることでした。

18世紀以降現れた国民国家ではフランス語をしゃべるフランス人の国、ドイツはドイツ語をしゃべるドイツ人の国と規定することで国家と国民の同一性を確保し、国家を成立さ勢多のです。

しかしユダヤ人が自分たちの国家を造るとなった際、先ほど見たようにユダヤ人の間で文化や言語、時には人種が違うことが珍しくはありませんでした。

ですから文化などが違うユダヤ人同士で結束するのは難しいと考えられたのです。

そこで、あらゆるユダヤ人が結束する方法が考えられます。

その方法こそが全てのユダヤ人に受け継がれてきた記憶、旧約聖書の利用なのです。

具体的には旧約聖書に記述があるパレスチナにユダヤ人国家を建国することであらゆるユダヤ人の間で結束を生み出そうとしたからです!

老獪な紳士との約束

このようにユダヤ人がシオニズムの思想により自国の建国を待望する一方で、世界はどんどん動いていきます!

世界史的にも非常に重要な出来事がとうとうヨーロッパで発生し、このことが“ユダヤ人の国”を建国する考えを現実のものへと一気に加速することになるのです。

その非常に重要な出来事とは…そう第一次世界大戦です。

この戦争でユダヤ人は当時のイギリスの外相アサー・バルフォアから、パレスチナの地に「ナショナル・ホーム(民族的郷土)」の建設に賛成する声明(バルフォア宣言)を引き出すことに成功します。

しかし、イギリスはのちに三枚舌外交と呼ばれるようにアラブ人にはパレスチナも含む中東一体にアラブ王国の建設を、フランスとは東アラブを分割する約束をしたりしていました…。

なぜイギリスがこの様な矛盾する約束をした理由は別の記事で詳しく紹介します。

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結局は第一次大戦後、東アラブはイギリスとフランスによって分割されることになります…。

イスラエルの建国

さて第一次大戦後パレスチナはオスマン帝国からイギリスの手に移ります。

イギリスはバルフォア宣言に従いヨーロッパのユダヤ人にパレスチナの土地の購入や移住を認めました。

かつてはユダヤ人の王国があったとはいえ当時のパレスチナオスマン帝国の支配下に何百年もあったのでムスリムのアラブ人が数多く住んでいました。

もちろんその中には少数ですがシオニズムが始まる前からユダヤ教徒のアラブ人も住んでいましたが…。

ですがバルフォア宣言によりヨーロッパからユダヤ人が大量に入植してくると、ユダヤ人とアラブ人の間に対立が目立ち始めるようになったのです。

急にわけのわからない集団が大量に移住してくれば、元から住んでいた人の中に不安や困惑を持つ人がいてもおかしくありませんよね。

なのでバルフォア宣言があったとはいえ、両者の対立を重く見たイギリスはユダヤ人の新規移住を制限するようになります。

そして第二次世界大戦が終わるまでこの制限は続きました。

しかし、第二次世界大戦後ナチスによるホロコーストもあり安全を求めパレスチナにやって来るユダヤ人は増加します。

しかも欧米各国も自国にナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が大量にやってくるのを嫌がったので、彼らを自国に入れるよりもパレスチナに行くように仕向けていたりしました…。

イギリスの手から離れるパレスチナ

第二次世界大戦終戦後イギリスは国力をすっかり疲弊しきっていました。

なのでパレスチナで起きているユダヤ人とアラブ人の対立に首を突っ込む余裕もその気もねぇということで、この問題を出来たてホヤホヤの国連にぶん投げるのです!

この非常にしち面倒臭い問題をぶん投げられた国連はユダヤ人とアラブ人の国家を共に建設するという無難な提案をします。

ですがアラブ人は当然のことながらが拒絶しました。

やっぱり先祖伝来の土地を明け渡せとは、けしからん!となるのが人情ですよね。

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こうしたアラブ人とユダヤ人が対立する中で、1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されたのです。

この瞬間ユダヤ人がユダ王国以来の自分たちの国を再び獲得したのです。

 パレスチナ問題へ

このようにイスラエルは建国されたのですが、元からいたアラブ人から土地を奪うような形で建国されたものでした。

そのため元々住んでいた人達(以後パレスチナ人と呼びます)は難民として生活せざるを得なくなったのです。

さらにイスラエル建国直後に勃発した第一次中東戦争によりパレスチナ人はさらに土地をなくすことになるのです。

第一次中東戦争においてアラブ側がイスラエルを追い出し、パレスチナ人の土地を取り戻すことを目標に掲げていたことと現実を付き合わせるとなんとも皮肉なものですね。

こうした現実を受けてパレスチナ人は、イスラエルという国の存在そのものが許せないものでした。

しかし度重なる中東戦争などを通じてパレスチナ人は争いと貧困に疲弊するようになります。

そしてユダヤ人との共存にも妥協しようという意見がで始めるようになりました。。

一方でイスラエル側もパレスチナ人との闘争に対する国際世論からの非難と、国内の平和を求める声により両者は共存の道を模索するようになりました。

しかし両者の中には徹底抗戦を望む者がおり、そうした人物が相手側を挑発し攻撃したことで相互不信の沼に沈んでいくことになります…。

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ユダヤ人の中にはパレスチナは自分たちに必ず攻撃を加えてくると確信する者も登場し始めることになってしまったのです。

そのため身の安全を守るためパレスチナ人が住んでいる地区を囲うフェンスを建設することでの隔離し、時には軍事的な手段をとるようになったのですね。

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イスラエルの上記のような態度は、一度は和平を求めたパレスチナ人を失望させるのには十分すぎるものでした。

そして、隔離された地区での生活に悲観しきった人の中から自爆テロなど過激な行動をとるようになるのです。

イスラエルはパレスチナ人のこの様な態度から、自身の安全を確保するために攻撃を一層強めることになりました。

以上より、パレスチナ問題の根っこは宗教や民族の対立も含みますがもともとは土地に関する問題や紛争が数十年続いた結果、相互不信と報復の連鎖につながっていったと言えるでしょう。

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