5分でわかる!?インティファーダ運動

パレスチナ問題

何でインティファーダがパレスチナで起こったの?そもそもインティファーダ運動とは何ぞや?と思っている人もいるはず、そこでインティファーダとは何であるのか、起きた原因を探っていこうと思います。

 インティファーダはこんな運動

パレスチナにおけるインティファーダは二回起こっています。一回目は1987年の12月に(この年には、二回目は2000年の9月です。

インティファーダはどんな運動なんかというと、パレスチナ人がイスラエル軍の兵士に投石することで占領への抵抗の意思を示したことです。(少年が投石している写真をみた人もいるはず)

もし反撃されたら怪我や、最悪の場合死んでしまうかもしれないのに何でパレスチナ人はイスラエルの兵士に石を投げたのでしょうか?

 石を手にとったのは…

最初のインティファーダが起きた原因は何なのか?その理由はイスラエルで働いていたパレスチナ人が帰宅途中イスラエルの軍のトラックに突っ込まれたため死傷者が出たことに対しパレスチナ人がデモ活動を起こしました。デモはヒートアップしとうとうイスラエル軍と衝突するにまでなりました。パレスチナ人は石を持って抵抗の闘争を始めたのでした。この闘争は次第に重火器が使われる過激なものに変質していったのです。

これが最初のインティファーダ(第一次インティファーダ)の原因です。これは世界各地で大きく報道されました。

それにしてもどうして第一次インティファーダが世界各地で大きく伝えられたのでしょうか?

丸腰のパレスチナ人がイスラエル軍の兵士に立ち向かったからでしょうか?確かにそれも理由の一つといえるのですが、他にも二つ重要な理由があります。

第一にパレスチナ人は自分たちが住んでいるガザ地区などには職がないので、生計を立てるためイスラエルでいわゆる3K労働に就いていました。インティファーダが始まると彼らは仕事をボイコットしました。当時のイスラエルではこうした労働はパレスチナ人が一手に担っていたのでイスラエル経済は少なくないダメージを負ったためです。

第二に、インティファーダによって圧倒的な力を持つイスラエル軍に立ち向かう無力なパレスチナ人という今まではなかった観点を世界にもたらしたからです。この見方はイスラエル側にとって衝撃的でした。

第一次インティファーダの結末

第一次インティファーダにより、イスラエルは治安維持のために費用がかさんだことや、入植地(イスラエルは建国以来、中東戦争などで占領地を得ると入植していた)があるから自分たちの安全を脅かす運動の不安か和平を求める声も上がり始めました。(それ以前は自分たちの敵を完膚なきまで叩きのめすことで、安全が保障されるとイスラエルで考えられていたのでインティファーダは相当なものに映ったのでしょう。)

また、パレスチナ側も彼らを代表するPLO(パレスチナ解放機構)は湾岸戦争の際、イラクを支持してしまったため今まで資金援助をしてくれた産油国から見捨てられたため、経済的に苦しいこともあり和平を望んでいたのでした。

こうして両者は和平を志したのですが、互いに存在を認めてこなかったので交渉しようにもパイプがないからできない、どうしよーかとなったときに現れたのがノルウエー。

ノルウェーが秘密裏に、両者の仲介を行ったおかげで1993年9月にワシントンでイスラエルがパレスチナに自治を認める(オスロ合意)という形で和平が実現したのです。(この和平にアメリカは全く関与していなかったのだが、あたかもアメリカが音頭をとったかのように演出された。クリントン政権は中東における外交成果がパッとしなかったのでどーしても自分たちの手柄としたかった。ノルウェーとしても必死にまとめ上げた和平案がアメリカの反対でおじゃんになることを危惧していたので、手柄を差し出したんですね~。)

和平の成立に多くの人は喜んだのですが…

和平の崩壊と第二次インティファーダ

双方ともオスロ合意に不満を持つ人がいました。パレスチナ側はハマスという武装集団がオスロ合意ではエルサレムの帰属権やパレスチナ難民の帰還権といった重大な問題が棚上げにされていると、反対しました。

イスラエル側も神から与えられた国土を異教徒に売り渡すとは何事だ!と反対するものが出ました。

こうした中で和平を推し進めていたイスラエル首相のラビンが、それに反対していた青年に1995年の11月に暗殺されてしまったのです!和平交渉が進展は1999年にバラクがイスラエルの首相に就任するまで待たなければいけなくなりました。

バラクは2000年にアメリカで行われたキャンプ・デービット和平交渉で、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の大部分をパレスチナに返還することを提案したのです。統一エルサレムはユダヤ人の永遠の首都だとイスラエルは考えていたので、この提案はイスラエルが相当譲歩したものでした。

しかしこの提案をパレスチナ自治政府の指導者アラファトは、何と拒否しました。どうしてアラファトはこの提案を拒否したのでしょうか?

実はイスラエル側の提案は返還される土地はユダヤ人の入植地や道路によってバラバラにされたような形だったのです!これでは国家の統一性もあったもんじゃないから拒否したわけです。

こうして和平への道はうやむやになってしまいました…

最後に第二次インティファーダがなぜ起きたかをかいつまんで説明しますね。イスラエル首相となるシャロンが和平へのとどめといわんばかりに、イスラム教の聖地アルアクサー・モスクを訪れたからです。これは明らかにパレスチナ人を挑発するものでした。占領地を返還したくないシャロンの思惑(パレスチナ人が武装闘争を始めれば和平は無理だということで占領地を返還しない大義名分ができるからです。)どうりパレスチナ人の怒りは爆発し、第二次インティファーダが開始されたのでした。

以上のように和平は崩壊したのです。

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