今すぐ分かる!?パレスチナ問題の始まり

      2018/04/19

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ニュースや学校の授業などで、たまに耳にする事がある❝パレスチナ問題❞という言葉。

パレスチナ問題の理由として宗教が違うためだからとか民族が違うからだと簡単に説明されがちですが、実際にはそれだけではないのです!

この記事を最後まで読めばきっとパレスチナ問題の根本が分かるはず!

まず、パレスチナってどこだ?

パレスチナ問題を語るにも、まず場所を分かっていなければ。パレスチナの位置を確認しましょう!

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パレスチナはだいたい、イスラエルやシリアらへんを指します。でパレスチナには現在イスラエルという国があります。

もう少し詳しい地図を見ると以下のようになっています

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さて、なぜユダヤ人はパレスチナに自分たちの国を造ったのでしょうか?

熱狂のシオニズム

その根本的な理由としては(一部の)ユダヤ人たちが、自分たちがヨーロッパ各国の国民としてみなされないのならそれなら自分たち国を作ればいいと思ったからです。

時をさかのぼること19世紀後半。

フランス革命を発端とした自由思想の展開に伴いヨーロッパに住んでいるユダヤ人は各々の国の国民として法的に認められるようになっていました。

それまで多くのユダヤ人は異教徒ということでヨーロッパ社会では相容れない存在と思われていたりしたので、キリスト教徒同じ権利を持った国民とされることは思いもしないようなことだったのです。

こうしたフランス革命以降のヨーロッパ社会での自由主義思想の展開によって、社会のマジョリティ側だけでなく、ユダヤ人たちも同じ国の国民という意識を持つような人も出始めていました。

そうした融和的なムードがあったのですが、ヨーロッパ社会ではアンチ・セミティズムと呼ばれる思想に基づいて激しいユダヤ人差別が見られるようになりました。

アンチ・セミティズムが起きた理由としてはロシアから西側ヨーロッパにユダヤ人難民が大量に流れ込んできたことが挙げられます。

これによってユダヤ人は各々が住んでいる国の国民として受け入れられはじめている、受け入れられていると信じていたので、この差別は「自分たちが安全に暮らせる国は存在しないのでは?」と大いに疑念と不安を掻き立てるものでした。

この不安を極大化させたのは1894年にフランスで起きたドレフュス事件(えん罪でユダヤ人の士官ドレフュスが捕まったこと)だったのですね。

こうした中でハンガリー生まれのあるユダヤ人が登場します。その男の名はテオドール・ヘルツル。

テオドール・ヘルツル

テオドール・ヘルツル

 

ヘルツルは「ユダヤ人が“安全に暮らせる国”」を造ろうと主張しました。ヘルツルの主張は政治的シオニズムと呼ばれています。

(シオニズムは他にも文化的、実践的などありますが全て紹介していると、パレスチナ問題の説明から脱線してしまうのでカットさせてもらいます。ゴメンなさい…別の記事で詳しく紹介しますね!3分でわかる?シオニズム)

政治的シオニズムは身の安全を求めていたヨーロッパで生活していたユダヤ人の心をガッチリと掴んだのです。

だから自分たちの国を求めたのです!

またユダヤ人の中には自分たちの国を、かつてソロモン王の栄華があったパレスチナの地に求める者も現れ始めました。

その理由としてはユダヤ人は世界各地に散っていたので、ユダヤ人といっても使用する言語や身につけた文化が異なるということは普通だったんですね。

さらには肌の色や人種まで違うということも十分に考えられることでした。(ユダヤ教徒がユダヤ人ですから、そのようなことが考えられるのですね)

だからこそダヤ人国家を造るといっても文化や言語が違うためなかなか結束ができない…。

そこで、どのユダヤ人にも受け継がれた記憶である旧約聖書に記述があるパレスチナにユダヤ人国家を建国することで(人工的に)結束を生み出そうとしたからです!

老獪な紳士との約束

ユダヤ人がシオニズムの思想に熱狂している一方で世界はどんどこ動いていく!

世界史的にも非常に重要な出来事がとうとうヨーロッパで発生し、このことが“ユダヤ人の国”を建国する考えを現実のものへと一気に加速させます!

 その非常に重要な出来事とは…

そう第一次世界大戦!

この戦争でユダヤ人は当時のイギリスの外相アサー・バルフォアから、パレスチナの地に「ナショナル・ホーム(民族的郷土)」の建設に賛成する声明(バルフォア宣言)を引き出しましたのです!

しかし、イギリスはのちに三枚舌外交と呼ばれるようにアラブ人にはパレスチナも含む中東一体にアラブ王国の建設を、フランスとは東アラブを分割する約束をしたりしていました…

(なぜイギリスがこの様な矛盾する約束をした理由は別の記事で詳しく紹介します。)

シオニズムについてはコチラ → 3分でわかる!?三枚舌外交

結局は第一次大戦後、東アラブはイギリスとフランスによって分割されることに…。

イスラエルの建国

さてパレスチナの地はオスマン帝国からイギリスに移り、ヨーロッパのユダヤ人はパレスチナの土地を購入や移住を進めていきます。

もともとはアラブ人が多く住んでいたので(少数だがシオニズムが始まる前からアラブ系ユダヤ人も住んでいた)両者の間に対立が目立ち始め流ようになってしまいます。

急にわけのわからない集団が大量に移住してくれば、元から住んでいた人の中に不安や困惑を持つ人がいてもおかしくありませんよね。

なのでバルフォア宣言があったとはいえ、両者の対立を重く見たイギリスはユダヤ人の新規移住を制限するようになります。

そして第二次世界大戦が終わるまでこの制限は続きました。

しかし、第二次世界大戦後ナチスによるホロコーストもありパレスチナにやって来るユダヤ人は増加します。

(しかも欧米各国も自国にナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人難民が大量にやってくるのが嫌だったのか、彼らを自国に入れるよりもパレスチナに行くように仕向けていたりしました…。)

そして第二次世界大戦終戦後イギリスは国力をすっかり疲弊しきっていました。

なのでパレスチナの対応はできないと、この問題を出来たてホヤホヤの国連に投げてしまうのでした!

国連はユダヤ人とアラブ人の国家を、共に建設することを提案しましたが、アラブ人は拒絶しました。

(やっぱり先祖伝来の土地を明け渡せとは、けしからん!となるのが人情ですよね~)

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こうした中で1948年5月14日にイスラエルの建国が宣言されたのです。

ユダヤ人がユダ王国以来の自分たちの国を持ったのでした。

 パレスチナ問題へ

こうしてイスラエルは建国されたのですが、元からいたアラブ人から土地を奪うような形で建国されたのでした。

そのため元々住んでいた人達(以後パレスチナ人と呼びます)は難民として生活せざるを得なくなったのです。

さらにイスラエル建国直後に勃発した第一次中東戦争によりパレスチナ人はさらに土地をなくすことになるのです。

第一次中東戦争においてアラブ側がイスラエルを追い出し、パレスチナ人の土地を取り戻すことを目標に掲げていたことと現実を付き合わせるとなんとも皮肉なものですね。

こうした流れによりパレスチナ人は、最初はイスラエルという国の存在はとんでもないと考えていました。

しかし度重なる中東戦争などを通じてパレスチナ人は争いと貧困に疲弊すると共存することを望むようになりました。

一方でイスラエル側もパレスチナ人との闘争に対する国際世論からの非難と、国内の平和を求める声により両者は共存の道を模索するようになりました。

しかし両者の中には徹底抗戦を望む者がおり、そうした人物が相手側を挑発し攻撃したことで相互不信にお散っていくのでした…。

詳しくは以下の記事を参照してみてください!

これによりパレスチナは自分たちに必ず攻撃を加えてくると信じるイスラエル人も出始めました。

そのため身の安全を守るためパレスチナ人が住んでいる地区を囲うフェンスを建設することでの隔離し、時には軍事的な手段をとるようになったのですね。

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イスラエルの上記のような態度は、一度は和平を求めたパレスチナ人を失望させるのには十分すぎるものでした。

そして、隔離された地区での生活に悲観しきった人の中から自爆テロなど過激な行動をとるようになりました。

イスラエルはパレスチナ人のこの様な態度から、攻撃を一層強めたのです。

以上より、パレスチナ問題の根っこは(宗教や民族の対立も含みますが)相互不信と報復の連鎖にあるといえますね。

 - パレスチナ問題, 中東