リベラリズムと聞くとなんだかよく分からなかったり、リベラリズムはなんだか胡散臭い輩の主義主張と思う人もいるかと思います。
しかしなぜリベラリズムはこのように胡散臭かったり、エリート主義感が満載で気に食わないと感じられるのでしょうか。
そこで今回はリベラリズムとは何か、そして人々がリベラリズムに対して不信感を持つのかを簡単に説明していこうと思います。
目次
リベラリズムの胡散臭さの理由
さてリベラリズムと言っても実は使う場面によってその意味が変化します。
ですので色々な人がその時の文脈によってリベラリズムという言葉、思想を利用している現状があるのです。
そのため使っている人や、使われている場面によってリベラルという言葉の意味が変わることは少なくないのです。
こうした理由からリベラリズムに一貫した意味を感じられないということがあるのです。
つまりベラリズムという言葉が持つ意味の多さや、それを使う人の説明不足や理解の浅さがリベラルという言葉を胡散臭いと感じさせているのではないでしょうか。
リベラリズムの意味
さてここからはリベラリズムの意味について簡単に説明していこうと思います。
リベラリズムは基本的には次の文脈によって意味が変わってきます。
第一に政治哲学、国内政治で使われる場合。第二に経済面で使われる場合。
そして国際政治で使われる場合に意味を使い分けることができるでしょう。
政治哲学、国内政治でのリベラリズム
さてリベラリズムという言葉は政治哲学や国内政治における理論武装として使われるようになったのが始まりです。
他の二つの意味つまり経済的なものと国際的なものは、これから派生していったと言えるでしょう。
個人の自由を最大化する
さて肝心の政治哲学としての意味を簡単に言ってしまえば、「国や権力による強制から自由」ということができるでしょう。
つまり個々人が国家権力から何かをすることを強制されない、自分のやりたいことを権力に邪魔されないことの保証を求めるのがリベラリズムといえますね。
ただ好きなことができるとあれば、盗みを働いたり人を殺す自由も保証されるのでは…と思う人もいるかもしれません。
もちろんリベラリズムではそのような人に多大な迷惑をかけるような行為を保証しているわけではありません。
つまり他人に危害を与えないという括弧付きでの自由を認めているという点がリベラリズムにおいて重要なところです。
迷惑をかけない限り自由を享受することができるという考えにもちゃんと理由があります。
それはリベラリズムが生まれた時代背景を考えるとわかりやすいと思います。
リベラリズムはもともと18世紀のヨーロッパで生まれた概念です。
当時のヨーロッパでは啓蒙主義が高まっていたとは、知識人を含めたヨーロッパの人々はキリスト教の教えの元にありました。
そしてキリスト教の教義から万人の平等という思想を導くことが可能だったのですね。
平等であればこそ同じ立場の誰かから財産を力ずくで奪うことや信仰を強制したり、否定することは許されません。
であればこそ、生命と財産権の保証(私有財産制の保証)や信仰、表現の自由の保証が導き出すことが可能なのです。
こういうわけでリベラリズムは他者の権利を侵害しない限りにおいて、何をするかの自由、何を信じるかの自由を保証したものと言えるのです。
国家権力の抑制と三権分立
さてリベラリズムにおいてもう一つ重要な考えがあります。
それは国家の権力の抑制です。
個人の自由を尊重するという考えをリベラリズムと説明してきたので、急に国家権力の抑制という話が出てくれば話が違うのでは感じるかもしれません。
しかし、この国家権力の抑制は実はリベラリズムという神話を構成する上で重要な意味を持ってくるんですね。
繰り返しになりますが、リベラリズムは個人の自由(その自由は精神的なものだけでなく、経済的なものを含んでいます)を尊重するドグマです。
考えてみると国家は個人と比べて非常に強力な権力を持っていますよね。
しかもこのリベラリズムという考えが生まれたのは16世紀頃のヨーロッパです。
その当時のヨーロッパではある程度は制限があったとはいえ、国王や領主の権力は非常に強力なものでした。
なぜなら国王や領主は現在の立法、行政、裁判に関する権限を一手に握っているような状況ですね。
このような状況ですと国王や領主といった権力者=国家は国民に対して立法、裁判、行政の権力をすべて活用することができるので、国民の自由は簡単に制限されてしまうものと言わざるをえません。
ですから国民が自由を獲得したいと考えるのなら、国家権力の制限が必要となってくるのです。
そしてこの国家権力の制限こそが社会とかで習ったであろうモンテスキューの三権分立、権力分立として結実したのです。
以上からリベラリズムとは人々が国家権力から邪魔されることなく、かつ他人の権利を侵害しない限りにおいて自分の利益を最大化することを是とする思想と言えます。
経済面でのリベラリズム
ここからは経済におえるリベラリズムについての説明をしていこうと思います。
さて先ほども説明したようにリベラリズムでは個人の利益を最大化することを正しいものとしています。
ですので経済的なものですととにかくお金を稼ぐということも正しいと考えられていたのですね。
しかし、この経済的なリベラリズムの考えは修正されることになるのです。
産業革命を経たヨーロッパでは経済格差が無視できないほど大きなものになり非常に問題になっていました。
実際、マルクスの共産主義がこの頃生まれたことから経済格差の拡大がよくわかりますよね。
そしてリベラリズムは経済格差の原因として攻撃されるわけなのです、
リベラリズムはこうした攻撃を受けて思想の修正を迫られたわけです。
そしてリベラリズムは国家が経済分野に介入することを是とするようになったのです。
この経済における介入において国家は個人の経済的自由や所有権の制限を認められるようになったのです。
ただし全面的に介入が認められるわけではなく、教育や健康、雇用、住居など国民の生活の基礎をなす分野に介入が正当化されたのです。
こうした介入を認められた分野に国家が積極的に関与し、国民の生活の向上を図るのであれば経済的自由や所有権の制限が認められるようになったのです。
そしてこの考え方をアメリカの政治学者であるロールズが正義論という形で論理化したのです。
この理論が今のアメリカでのリベラリズムを意味し、民主党の政策のバックボーンになっているのです。
国際政治でのリベラリズム
さて、最後に国際政治においてのリベラリズムの役割を簡単に見ていこうと思います。
国際社会は主権国家から構成されています。
そしてこの主権国家の関係は平等なものとなっています。
たとえアメリカのような超大国とナウルのような太平洋上の小国家も国際社会では名目上といえども対等な存在として扱われます。
そして複数の主権国家同士で何か国際的な問題を解決しようとした際に国家同士で協力できればすぐに解決できるのは当然に思えますよね。
一方で協力できなければその解決が難しいのは地球温暖化などの問題を考えてみればすぐにわかりますよね。
このことから分かるように主権国家は対等として扱われるので国際社会で何か問題を解決したいと思っても、その問題を解決するには互いに協力することができなければ難しいのです。
これは国内の状況と比較すると、その違いがよくわかると思います。
なぜなら日本国内で私人間で何か問題が発生しても最終的には裁判で問題を強制的に解決することができます。
例えば日本国内で誰かが交通事故にあった際に、その被害者は加害者に対して損害賠償を裁判を通して強制的に得ることができますよね。
しかし、国際社会では先ほども見たように何か問題が発生しても強制的に解決してくれる存在はありません。
国連が解決するのではと思う人もいるかもしれません、しかし国連でも主権国家間の平等が担保されています。
なので国連も国家間に問題を解決するように注文することはできません、またそもそも国連は国家間の寄り集まりという性質があります。
ですので国際社会は国内と違って強制的に問題を解決する存在がないですね。
そこでこうした強制的に問題を解決することができない国際社会への処方箋の一つとして出てくるのがリベラリズムなのです。
国際社会は先ほども述べたように、国家に対して問題を強制的に解決させるような権力もパワーも持っていません。
そうした状況に状況に対して、リベラリズムでは国際規範を作ることで国家間が協調するようになり問題が自然に解決されるようになると信じられているのです。
規範ができたからといって問題がそう簡単に解決されるはずがないと思えるかもしれません。
しかし、次のように考えてみれば納得することができるかもしれません。
自分以外の人が何かしらのルールを守っている中で自分だけがそれを守っていなかったら何かしら決まりの悪いものがありますよね。
そして国際社会でも他の国々は特定の規範に従っているのに、ある国だけがそれを守っていないという状況を考えてみましょう。
そうした状況ですと、規範を守っていない国に対して他の国はいい感情を持たないでしょう。
もしかしたら規範を守っていない国に対してある国が独自の経済制裁を課して他の国もそれに追随するかもしれません。
そうなれば規範を守らないことが国にとって逆に不利益になると考えて規範に従う可能性は十分にありますよね。
このように規範を守らないことに対しての批判が起きたりして国の不利益になると判断するようになれば、規範に従う方が得だとなり問題が自然胃解決されるようになるかもっしれません。
このように国際的な問題が解決されると考えるのがリベラリズムの考え方です。
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