なぜソ連はアフガニスタン侵攻に侵攻したの?テロ地獄はここから始まった…

ussrアフガン侵攻 アフガニスタン

後に9.11テロを実行するアル・カイーダの中心人物を含む、数多くのムジャーヒディーン(聖戦士)を生んでいったと名高いソ連によるアフガニスタン侵攻。

そもそも何故ソ連はアフガニスタンに侵攻したのでしょうか?

そして、後に反米テロに従事するようなったムジャーヒディーンはどうしてアフガニスタンで登場したのでしょう?

そこで今回はその理由を深掘りしていこうと思います。

そもそも、アフガニスタンってどんな国?

ソ連がアフガニスタンに侵攻した理由を見る前にアフガニスタンはどこに位置しているのかを確認しようと思います!

アフガニスタンがどんな場所にあるかを把握しておくだけでもソ連がアフガニスタンに侵攻した理由をより把握しやすくなるでしょう。

さて当のアフガニスタンは中央アジアに位置しています。

日本人は普通でしたら気にも留めないですよね。

アフガニスタンmap

地図に赤線が引いているところが、アフガニスタン!

~スタンっていう国が周りに多い!っていうのが率直な感想。この「スタン」は「国、地域」を表す言葉だそうです。

アフガニスタン東部には国境をまたいでパキスタンにも存在する、パシュトゥーン人が多く暮らしています。

このパシュトゥーン人は後々大きな影響を発揮しておくのでひとまず頭の片隅にでもおいておきましょう。

アフガニスタンの歴史

さてソ連がアフガニスタンに侵攻した理由を把握する前にアフガニスタンの歴史も押せておこうと思います。

なぜならソ連によるアフガニスタン侵攻前後のアフガニスタンの歴史を把握しておけばより、ソ連の侵攻理由をクリアに理解できると思うからです。

アフガニスタンの歴史を見ますと、この国は度重なる独立戦争の後に1919年にイギリスから独立しました。(やったぜ!)

1973年まで王政を行っていましたが、ダーウード首相による革命によって共和制に国政が変わります…。

この革命で大統領に就任したダーウードですが、革命に協力した左派の人民民主党と憲法改正において対立し、また国内のイスラーム復興運動を弾圧したためにイスラーム復興運動家とも対立しました。

この革命において主要なアクターとなった左派の人民民主党は当然のことながらソ連と関係がありました。

ですので無神論者ソ連と同じように人民民主党も無神論を是とする政党であり、政策にもそれを反映したものを打ち出していきます。

しかしこの政策は信仰心の厚いムスリムにとっては耐え難いものであり、彼らにとって政府は憎むべき敵に見えても不思議ではないでしょう。

このように革命後のアフガニスタンは左派と宗教右派に真っ二つ分断されたわけです。

結果、国内が真っ二つ割れたことでタウードは支持基盤が揺らぎ1978年に起きた4月革命で殺害されてしまうのです…。

さてこのダウードが暗殺された4月革命後に権力を握ったのが左派の人民民主党です。

しかしこの政党の指導者タラキーは農業政策で致命的な失策をやらかしてしまいます。

アフガン版農地改革は地獄の入り口だった…

その致命的な失策とは大地主から小作人への農地の再配分です。

左派の人民民主党はソ連からの影響をメチャクチャに受けていますので、天下をとったからには共産主義的な政策を当然のように推し進めていきます。

そしてこの共産主義影響下にある農地の再配分政策によって政府は地元社会で影響力を持っていた従来の地主層、部族の長から見限られてしまいます。

こうした地元の大物から嫌われても国民の多数である農民から支持を得られれば政府としては問題はありませんでした。

さてそれまで農地の制度改革が行われるまで農民は地主層に生産した作物を収める代わりに、地主からある程度の生活を保証されてきました。

しかしこの農地政策によってある農民は意味で御恩と奉公の関係にあった地主層との関係を強制的に切られ、自分の生活は自分たちでどうにかしなければいけなくなりました。

ここでうまくやれば以前よりも豊かな生活を獲得できたのでしょうが、多くの農民は失敗し以前よりも貧しくなったように感じられるようになってしまいました。

そのため農民としては政府が余計な政策をしやがったので自分たちの生活は苦しくなったと、政府を嫌うようになるのですね。

こうして革命政府は国民から総スカん状態となるのです。

さてこうした状況ともなれば政府内でも信頼回復のためトップを変えようとする動きが出ても不思議ではないでしょう。(00〜10年代のいわゆる麻生おろしや鳩山おろしをイメージしてもらえば分かりやすいと思います)

そして権力の座を虎視眈々と狙っていた人民党のNo2のアミ―ンはこの失策をこれでもかと非難します。

そうこうしているうちに1979年の10月にタラキーが急死し、これによってアミーンはアフガニスタンの指導者の立場をゲットしたのです。

こうして政権を獲得できたアミーンでしたが、その2ヶ月後の12月にソ連による侵攻によって死亡してしまうのです…。
(100日天下ならぬ、60日天下だったアミーン。悲しいものですね。盛者必衰?と言えるでしょう。)

なんでソ連はアフガニスタンに侵攻したのか?

はてさて、なぜにソ連は種がにスタンに侵攻にしたのでしょうか。

1970年代は確かにデタント(アメリカとソ連の緊張関係が緩和されていた)があったとはいえ、冷戦の真っただ中にありました。

ソ連がアフガニスタンに侵攻すれば、アメリカと再び緊張関係が訪れると予想できます。

実際、ソ連はもともと侵攻に消極的だったのですが結果としてはアフガニスタンに侵攻することになってしまいました。

さてその理由は何だったのでしょうか?

その理由は2つあると言えます。

1つ目の理由は、アメリカがアフガニスタンに接近していたように見えたこと。

2つ目の理由としてはソ連国内におけるムスリムへの影響を抑えること。

以上がソ連がアフガニスタンに侵攻した理由です。

ここからはその理由を詳しく見ていこうと思います。

アメリカとアフガニスタンの接近

1979年の2月にアメリカの中東地域におけるパートナーだったイランのシャー政権が倒され反米的なイスラーム共和国が成立しました。

こうした中でアメリカは中東での影響力を保持するため新しいパートナーを探すはめになっていたのです。

このときアフガニスタンを指導していたのが先ほども触れたアミーンです。

彼はかつてアメリカに留学しており(さらにアメリカのエージェントの連絡先をいつも持っているとの噂話もあり)ソ連にとってアミーンは疑わしい人物でした。

ソ連としてはアミーンはいつか自分たちを裏切り、アメリカ側に付くのではないかと疑問視しており、当のアミーンは王政廃止後に進められたソ連との協力路線から距離をとりはじめていました。

この動きはソ連にとってアミーンはアメリカ側につくと思わせる重大な背信行為に映ったのです。

しかし怪しい動きをしているかもとういうだけで軍隊を派遣するものでしょうか?

しかし、ソ連は最終的には軍隊を送ることにしました。

その理由としてはアフガニスタンとソ連の地理的関係が問題になってきます。

地理的関係がどーして侵攻に関係があるの?と感じた人もいると思います。

さてアフガニスタンはソ連の要所であり、この社会主義国家が親米国にでもなってしまうと、ソ連の国防上大きな穴が開いてしまうことになります。

アフガニスタンに米軍基地なんかができたらもう、ソ連の横っ腹にナイフが突き立てられたようなものです。

アフガニスタンに米軍基地ができればアメリカのミサイルや核兵器が当然持ち込まれま、その近さからソ連全土がミサイルの攻撃範囲になるわけです。

一番最初に確認したアフガニスタンの地図を見返してもらえれば、そのソ連指導部の危機感を理解できると思います。

こういうわけでソ連の上層部ではアフガニスタンがアメリカと手を結ぶ前にどうにかしようと慌てふためく状況になっていたのです。

そうしてソ連政府にとって国防上の重要性から、アメリカに取られるくらいなら先に分捕ってしまえということでアフガニスタン侵攻という手段が本気で検討されるようになったのです。

ソ連国内のムスリムへの影響を防止するため

さて当時のアフガニスタンは左派の人民党が支配する社会主義国だったっために宗教が厳しく制限されていました。

敬虔なムスリム(イスラーム教徒)にとって国の政策は許しがたいものであり、アフガニスタン国内では宗教禁止に対して不満が爆発する危険性もあったのですね。

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そうした中、1979年に起きたイラン革命によってイスラームを根底とした政権がイランに誕生しました。

ソ連としてはこの革命が仮に社会主義国アフガニスタンに伝染し、イスラーム主義化するような事になってしまうと国内的に非常にマズいのではという危機感がありました。

ではなぜソ連にとってこのイスラームの活発化が危険なのでしょうか。

アフガニスタンがイランに続いてイスラーム国家に体制を変革したとなれば、これに刺激されたソ連国内のムスリムたちが独立運動を企て実行するのではないかという危機感をソ連政府が抱いていたからなのです。

ソ連にムスリムがいたの?と疑問に思う人もいると思います。

実は、ソ連の崩壊によって独立したカザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジア諸国はムスリムが人口の多くを占めています。

もともと中央アジアのこうした国々はロシア帝国時代からロシアに支配されていたのですが、ロシア革命後もソ連の支配下にありました。

そして当然の事ながら、こうした中央アジアでも共産党によって統治されていたので宗教は傍に追いやられていたわけです。

こうした中で共産化したアフガニスタンがイスラーム国家に転換したとなれば、ソ連支配下の中央アジアにいるムスリムが神権統治体制の成立の可能性を夢見ないわけがない!つまりイスラーム国家の成立を要求するようになるのではという危機感をソ連は抱いたわけです。

こうしたわけで、ソ連は国際世論から批判を受けようとも国内のムスリムの動きとアメリカの動向を封じ込める必要があると判断したためアフガニスタン侵攻を実行するはめになってしまったのです。

ムジャーヒディーンの登場

こうしてソ連が1979年の12月にアフガニスタンに侵攻したことで、ソ連は泥沼のアフガニスタン紛争に突っ込んで行くことになるわけです。

アフガニスタン国内だけでなくアラブ世界、その中にはアル・カイーダの指導者となるビンラディンやISの母体組織を作り上げたザルカーウィーからもソ連に対抗するムスリムの戦線が結成されました。

こうしたムスリムの勢力はジハードを実践する者を意味するムジャーヒディーン(聖戦士)と名乗りソ連との聖戦を遂行して逝くのです。

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アル・カイーダの指導者となるビンラディン

ムジャーヒディーンたちはアフガニスタンに集結し、神を否定するソ連に対してのジハードを実行するるという宗教的大義によって高い士気を保ちながらゲリラ戦を仕掛けていったのですね。

ソ連は共産主義国家なので基本的には宗教は否定されています。

ムジャーヒディーンにとって唯一神の否定は決して許されざる行為であり、無神論者ソ連によるイスラームの地アフガニスタンの解放は正に聖戦となります。

ですから仮にこの戦いで死んでも殉教のため来世の幸福は約束されていると考えるのです。

こういうわけでムジャーヒディーンたちはムスリムの解放を旗印に死をも恐れず、逆に喜んで死ぬ戦争をソ連が撤退するまで実に9年間も続けたのでした!

9年もゲリラをやってるって、何だか信じられませんね。

ソ連は死をも恐れぬ兵士と9年間も戦争をするはめとなり最悪な結果としか言えないでしょう。

このようにムジャーヒディーンは9年間も戦い続けることができました。

ただムスリムの解放という崇高な目的や殉教による来世の幸福の約束があったとしても、ある意味での精神論だけじゃ戦い続けることは難しいのではないでしょうか。

精神論による神風や竹槍を持って戦うことがあほらしく感じられるように…。

もし仮にそれだけで戦い続けられたとしても、ソ連を撤退まで追い詰めるにはでもっと時間がかかったのではないでしょうか。無論9年も十分に長いと思いますが…。

さてムジャーヒディーンがソ連を撤退させるまでの9年間を戦い続けることができたその理由は、アメリカとパキスタンそしてサウジアラビアの金銭的、軍事的支援が存在したからでしょう。

冷戦とアメリカ

対テロ戦争を2000年の9.11テロ後に始めたアメリカがムジャーヒディーンを支援していたと聞くと驚く人は多いと思います。

ですが現実にアメリカはソ連からみれば過激派イスラームテロリストであるムジャーヒディーンにせっせと支援を行っていたのです。

さてアメリカがムジャーヒディーンを支援した理由は冷戦構造下に置ける、ある意味でのソ連に対しての嫌がらせと説明することできるでしょう。

冷戦構造下ではアメリカとソ連は世界の覇権をかけて争っており、相手の力を削ぐために利用できるものは利用しようということでムージャーヒディーンもアメリカにとってソ連の敵ということで十分に支援の対象だったのですね。

またイランを失ったアメリカに代わって、ソ連がアフガニスタンを支配することでソ連の中東での影響力の拡大の防止と、西側諸国に安定した石油の供給を可能とするためには中東の湾岸諸国へのソ連による脅威を遠ざけるという戦略もあったためアメリカはムージャーヒディーンに武器の支援、軍事訓練を施すなどの支援を行ったのです。

パキスタンがムジャーヒディーンの味方をしたのは、パキスタンとアフガニスタンの間にあった国境問題が大きな要因と言えるます。

ソ連の侵攻のさいに作られた、操り人形とも言えるアフガニスタン政府はパキスタンに対して自分たちに有利な国境を主張していました。

これにはパキスタンは当然ブチ切れます。

そこでパキスタンアフガニスタンが混乱すれば自分たちに有利な国境を引くことが容易になると考え、ムジャーヒディーンを自国内で軍事訓練を施し、アフガニスタン解放の戦いに解き放っていくのです。

サウジアラビアの危機

さてソ連によるアフガニスタン侵攻で危機感を一番持ったのはもしかしたらこのサウジアラビアかもしれません。

サウジアラビアがソ連による侵攻をを恐れるのは無論サウジもソ連との実戦に巻き込まれるのではという不安もあったことは確かです。

しかしサウジアラビアにとっては、ソ連のアフガニスタン侵攻が引き起こすかもしれないそれ以上に恐れることがありました。

それは国内での反政府意識が高まり、クーデターが発生するかもしれないという恐怖です。

ソ連のアフガニスタン侵攻がなぜクーデターがサウジアラビアで起きる危険性が関連しているかが理解できないと思う人は多いと思います。

ただ次の背景を知ればサウジアラビアがクーデターを警戒することを理解できると思います。

革命への危機感

もともとサウジ王家はその成り立ちからして、イスラームの守護者であることを持って国の支配を正当化してきました。

ただ建国から数十年たちオイルマネーで経済が沸き立つなどでサウジアラビアの政策はある意味でイスラーム的なものから西欧的なものに近づいていました。

しかし、そうした中で1979年の頭にイラン革命が発生しイランに神権国家が誕生するのです。

そして、その革命イランはサウジアラビアはイスラーム的に正しい政治を行っていないと非難を発するのです。

先ほど触れたようにサウジアラビア王家の正当性はイスラーム的に正しい政治を行っているとするところにあります。

イランはそのサウジ王家による支配の正当性を攻撃したのですね。

こうしてサウジ王家の権威が揺さぶられる中でメッカで重大事件が発生します。

それはサウジ王家の支配はイスラーム法から逸脱していると主張するグループがメッカのカーバ神殿を占領してしまったのです。

これによって当時のサウジ王家の権威は大きく傷がついたと言える状況にありました。

そうした中で1979年の末にソ連によるアフガニスタン侵攻が発生します。

このまま何もしなければサウジアラビア王家の権威は回復できないほどに落ち、革命が起きても不思議ではありませんでした。

ですからサウジはそれを避けるためにもジハードに参加するムジャーヒディーンに資金的援助をするなど、ムジャーヒディーンに手厚い支援を行ったのです。

そしてサウジはそれだけでなく、国内の過激派をアフガニスタンに送ることで国内の安定も図りました。

ただアフガニスタンに送られたムジャーヒディーンの中にある人物がいました、そう彼こそが後にアメリカを攻撃するオサマビン・ラディンなのですね。

以上の理由からムジャーヒディーンはアメリカなどから強力な援助を受けることによって、長年にわたり戦闘を継続できたのでした。

このようにアメリカからも支援を受けたムジャーヒディーンが後に、アメリカにも牙を向くことになろうとは当時は誰も予想しえぬものでした。

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