政治系のニュースではよくリベラリズムとかリベラルという言葉を耳にしますよね。
特に選挙が近くなると、「ある政党はリベラルな勢力だ」などと説明されるので耳にする機会がさらに多くなります。
ただリベラルとかリベラリズムと言ってもニュースや新聞がその意味を伝えることはあまりないように感じます。
そこで今回はリベラリズムの意味を解説するとともに、今の日本では賛同する人がそれなりに多いかもしれないリベラリズムに対しての批判の一つとして生まれたリバタリアニズムの考えも紹介していこうと思います。
目次
現在の中国は決してリベラルではない…
まずは最初にリベラリズムの考え方を簡単に説明していこうと思います。
リベラリズムにおいて重視されるのが精神の自由です。
精神的自由の具体的な内容としては宗教を信仰する自由、逆に信仰を強制されない自由、ある特定の思想を持ったりそれを自由に広めることができることを言います。
他にも自分の生き方を決めたり、どういった思想を信じるかといったことも精神的自由の内に含まれます。
ただこれだけを見ても精神的自由とは何かあまりピンとこないこともあるかもしれません。
精神的自由があるとはどういったことかを理解するには逆に、それがない状況とはどんなものかを知ればよく理解できると思います。
精神的自由がないとはどういった状況かは中国や北朝鮮を考えれば分かるでしょう。
例えば北朝鮮で指導者を批判すれば過酷な罰を受けるでしょうし、中国では共産党による一党制支配の正当性を傷つける天安門事件などのニュースは政府によって握りつぶされています。
このように表現が国に規制されていたり、ましてや思想が国によって強制、制限されている状況を精神的自由がないと言えますね。
逆に精神的自由が認められている日本では総理大臣を徹底的に批判しようとも逮捕もされませんし、ましてや死刑になることもありません。
つまり精神的自由とは大まかに言えば、国家に管理されることなく自分の意見や主張をもち、それを外部に表現できる自由と言えるでしょう。
リベラリズムは富の再分配を認めている
さてリベラリズムには重大な特徴がもう一つあります。
それは国家による富の再配分があることです。
富の再配分とは簡単に説明すれば税金ですね。
リベラリズムは先ほども説明したように個々人の精神的自由を重視しています。この精神的自由を達成するにはある程度の経済的な保障が必要です。
その日の暮らしや食事に困っているようでは自分の生き方や思想に意識を向けることなんてできませんよね。
ですからそうした必要最低限の生活を保障するために、リベラリズムは国家による富の再配分を認めているのですね。
つまりリベラリズムは精神的自由のためには国家がある程度は個人から財産を収奪しても良いとしている立場と言えますね。
経済的自由 | 精神的自由 |
制限される | (基本的に)制限なし、しゃべり放題プラン |
リバタリアニズムは財産を最重要に考える!
リベラリズムと同じようにリバタリアニズムも精神的自由の尊重するという点では重なり合う部分があります。
しかし経済的事由になるとリベラリズムとリバタリアズムは全く違う立場をとります。
リベラリズムは経済的自由に制限を設けることを是としましたが、リバタリアニズムではそれを否定します。
つまり国家からの富の再配分を拒否する点に特徴があると言えるでしょう。
ではリバタリアニズムの富の再配分に反対するのでしょうか。
その理由としてはリバタリアニズムの財産観にあると言えます。
リバタリアニズムの考えでは個々人が稼いだ給料や財産はその人が無から生み出したから、それはその人に帰属すると考えます。
例えばあるミュージシャンが楽曲を発表し、ファンがそれを聞いたり利用するための代価として費用を支払います。
このミュージシャンに代価と支払われた費用は、ミュージシャンが自分で生み出した楽曲から手に入れたものとして所有が正当なものとみなされます。
一方でリバタリアニズムが問題とする富の再配分はここで問題となります。
リバタリアニズムでは自分が生み出したものと、その対価として正当な形で支払われたものに対して個人の所有の絶対性を認めています。
ですからリベラリズムの正当化する富の再配分は、リバタリアニズムにとって個人が正当に取得した財産を不正に収奪する行為と映るのです
また政府が富の再配分を行うことは人々が働いて手に入れた財産をかすめ取る行為であり、ある意味では国が国民をタダ働きさせていることと同義ではないかとリバタリアニズムは批判を行っているのです。
リバタリアニズムの究極の目標…
さてここまではリバタリアニズムとリベラリズムの違いをはっきりさせるために両者のもっとも立場を異にする財産観を見てきました。
ただリバタリアニズムの考えは財産以外にも重視するものがあります。
それは個人の判断です!
それだけを聞くと精神的自由を重視する立場のリベラリズムと変わらないじゃないのかと思うかもしれません。
しかしリバタリアニズムはリベラリズムよりもより自由を重視する立場にあります。
つまりリベラリズムでは禁止されていることもOKともなす傾向が高いです。
例えば麻薬や売買春もそれを行うのは個人の勝手なのだから国家が口を出すべきではないということで容認する人が多いのですね。
このようにリバタリアニズムはリベラリズムと比べてより個人の自由を広範囲で認める立場と言えます。
ですから政府が行えるのは契約執行の保障、警察機能の提供、国防など本当に最小限のものに限られ、富の再配分など福祉国家的な性格を持つ政策は許されないのです。
つまりリバタリアニズムの立場では究極的に必要最低限な機能しか持たない国家だけが存在を許容されるのです。
ここがリベラリズムとリバタリアニズムの分かれ目と言えるでしょう。
リバタリアニズムはアナーキズムと同じ?
さてここまでリバタリアニズムの立場を見てきましたが、結局アナーキズムと同じものじゃないかと思う人もいるでしょう。
さてアナーキズムは国家権力からの解放を求めるが故に、その解体を求めます。
一方でリバタリアニズムは先ほどから見えきたように精神的自由とともに経済的自由の最大化を求める立場です。
そしてそれらを最大化するための手段として政府の存在を認めているのですね。
例えば契約が遵守されなければ、経済的な自由は達成されません。また人を殺してもそれが裁かれなければ、社会はホッブスのいう万人の万人に対する闘争状態となってしまいます。
そうなってしまえば経済的自由も精神的自由もあったものではありません。
そこでリバタリアニズムでは必要最低限の社会機能を維持するために政府の存在を認めています。
つまり政府は必要悪な存在として認められているのですね。
これがアナーキズムとリバタリアニズムの最大の違いです。
つまり政府の存在を認めるか認めないかで両者は区別できるわけですね。
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