今さら人には聞けない?イラン革命の裏側

      2017/01/23

ペルセポリス

1979年に起きた、イラン革命。この革命はイランのパフレヴィー朝を倒しイスラーム共和制に移行しただけでなく、アメリカやソ連の対外政策に大きな影響を与えていくことになるにですね…。はてさて、なぜにこの革命が起き、そして当時の超大国であった米ソの対外政策に変化を生み出したのかを覗いていこうかと。

革命が起きた裏側

そもそも、なぜイラン革命が起きたのでしょうか?その原因として考えられるのが、以下の三つなんですね〜。

①経済問題
②極端な欧米化政策
③改革の失敗

まず①の急激に生じた経済格差とは何かと言いますと、当時のイランのシャー(皇帝、日本では国王と訳されることが多いですが)モハンマド・レザー・パフレヴィーは王権をより絶対的なものにするため、石油から得られる莫大な収入とアメリカから湯水のごとく流れてくる経済援助を用いてどんどん公共事業を行っていたのです。当時は冷戦期でして。ソ連に対抗するためアメリカはイランのシャー政権と、今では信じられないほど強い同盟関係を持っていたのです。これが経済援助や軍事支援という形で現れていたわけです!
この多数の公共事業おかげで、シャーは国内を支配するのに必要とする協力者の数を減らせたんですね〜。つまり、シャーの権力が強化されたことを意味するわけで‥。

しかし、シャーの権力を強化した公共事業は石油や経済援助といった国外からの資金に依存していまして。これは国外からの圧力や経済状況に影響を受けやすいものでした。なので70年代のオイルショックが起きた当初はボロ儲けできたのですが、落ち着くにつれインフレや失業、格差の拡大が無視でないほど大きくなりイラン国民は不満を持つようになったのです!これがイラン革命の要因の1つになったわけですね〜。

次に、②の極端な欧米化政策ってなにかと言いますと、シャー政権下のイランは先ほど述べたようにアメリカと強い関係にあったわけでして、その影響は政治や経済だけでなく文化にも及んでいたのですね〜。アメリカとイランの関係がどれほど強力だったかというと、アメリカから最先端の戦闘機や核開発技術が提供されたことからうかがい知れますね。(この時提供された核技術が、アメリカが脅威とみなすようになるイランの核兵器開発につながっていくとはなんたる皮肉。)
この、文化面での影響はどんなものだったかというと、イスラームでは禁止されている飲酒が堂々と行われていたり(ですが、飲酒の禁止は歴史的に見るとそう徹底されていたわけでないんですね)とか、女性が肌をさらけ出すような格好をするなど文化もアメリカナイズされていった状況がありました。マルジャン・サトラピというイラン人女性のペルセポリスという映画の冒頭で革命前のイランの日常をうかがい知ることができます!飲酒もしてるし、女性は肌をさらけ出している!(原作は確か漫画だったはず…あってるかどうかの自信ないですねぇ)

そんなわけで、行きすぎたアメリカ化に反感を持つ人もとーぜん出てくるわけで…。そのような人たちはもちろん、アメリカと仲がいいシャー政権は消えてなくなれやとイライラがたまっていくのですね〜。これがイラン革命の第二の要因!

最後に③の改革の失敗は何かと言いますと、当時のアメリカは権威主義的なシャー政権に対してイラン国民が反発を起こす前にアメでも与えて黙らせとけよー指示を与えたんですね。そこでシャー政権は白色革命と呼ぶ改革を実行していくことにしたのでしたー。

白色革命では女性への参政権が認められたことに注目されがちなのですが、最も意味深いものになったのが農地改革だったんですね。この農地改革が失敗したがためにシャーの威光は地獄に真っ逆さまに落ちていくわけですねー。なんで失敗したかというと大地主から土地を取り上げ、小作農に分配したのですが!分配以前よりも地主も小作農も儲けが少なくなってしまいまして…、このせいでシャー政権は多くの農業従事者から恨まれる羽目になってしまったんですね。これがイラン革命を引き起こす要因になっていくのですね〜。

ホメイニがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!

はてさて、こんな風にいい感じで国民からのヘイトを集めることに成功した?シャー政権。そんなかでシャー政権は1978年に始まった抗議デモに対して弾圧や妨害を行うんですね。で、とうとう国民はマジギレ。反政府デモは手のつけようがなくなり、翌年の79年の1月にシャーは亡命しイラン革命がなったのでした〜。(革命後、パフレヴィー国王は亡命先のエジプトで失意のうちになくなります。国王の息子は現在アメリカでイランの民主化活動をしているそうです。)

この革命を説明するにあたって避けられないのが、シーア派イスラーム教の指導者であるホメイニ師。

ホメイニ師

イラン革命の指導者であった、ホメイニ

革命が起きる前からホメイニはシャー政権はけしからん奴らだと主張していたためフランスに亡命していた、生粋の反シャーの立場でして。このようなスタンスだったホメイニはイラン国民から非常に人気があったのです。実際、シャーが亡命した翌月に帰国した際には大観衆から迎えられたほどでしたから。

さて、帰国したホメイニは革命の混乱を迅速に収束するため、間髪おかずに政治改革を行っていくことになるのでした。最終的に、イスラーム法学者が政府を監督する「法学者の統治」と呼ばれる政治体制を持つイラン・イスラーム共和国が成立するのでした。

ここで、面白いのがホメイニは最初は自身も法学者であるのに関わらず、「法学者の統治」に疑念を抱いていたことですね〜。「イスラーム法学者が政治をできるのか?」と。
実際、法学者の特権的地位を得に保障していないフランス第五共和政の流れを組んだ憲法草案をホメイニは認めていましたから。

ですが、なんやかんやで選挙に勝ったイスラーム法学者はそこそこうまく政治運営をやってのけたのを見て「大丈夫じゃん!」となり法学者の統治が本格的に行われていくのでした。こうしてイランはイスラーム法学者が支配する国に変容したのでした。
この法学者の統治は現在でも続いているのですね〜。

国外に対しての影響

イラン革命はイラン国内だけでなく、世界にも影響を与えることに…。
まず、シャー政権の盟友であったアメリカ。

usaアメリカとしてはそもそもイランはソ連に対しての防波堤と考えていたので、別にイスラーム法学者が治めていようが気にしないつもりだったのですね。しかし、イラン国民にとってアメリカはシャー政権を操っていた危険な存在だと思っていたのでアメリカ大使館を占領するなど反米行為を次々と実行したわけで…。
アメリカとしても、そこまでされたらもう許さねぇとなりイランとの関係を絶ち、フセインのイラクと組んでソ連に対抗しようとするのでした。

一方、冷戦のもう一人の巨人ソ連は焦った。アメリカも同盟国が敵になって焦ったと思うが、ソ連もそれと同じかそれ以上に焦った!
その理由としては、宗教を認めていないソ連ですが中央アジアの領土にはムスリムがおりまして。イラン革命の成功を見たムスリムたちがソ連から独立しようとするのではと焦るんですね〜。そして、この焦りが同年のアフガニスタン侵攻に影響を与えたことは言うまでもないでしょうね!

結局、イラン革命はイラン国内だけでなく当時の超大国の政治、外交に影響を与えたと思うと感慨深いかな〜なんて。

 - 中東